慈しみに満ちた。 ステファノ ―「慈しみと力に満ちた」人 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー

「主によって喜び歌え」 2018年01月21日 田村 英典

慈しみに満ちた

1-3 (イ)ステファノは,恐れを抱かせるどんな状況に直面しますか。 どんな反応を示しますか。 (ロ)これからどんな質問について考えますか。 ステファノが裁き人たちの前に立たされています。 エルサレムの神殿の近くにあったと思われる堂々とした広間に,71人が半円形に並んで座っています。 今日,このサンヘドリンでステファノの裁判が行なわれるのです。 裁き人たちは権力や影響力を持ち,大半はイエスのこの弟子をさげすんでいます。 事実,法廷を召集した大祭司カヤファは,何か月か前にイエス・キリストに死を宣告した時にもサンヘドリンを主宰していました。 ステファノはおびえているでしょうか。 2 この時のステファノの表情は注目に値します。 裁き人たちがステファノを見つめていると,その顔は「み使いの顔のように」見えます。 ()み使いはエホバ神からの音信を携えているので,恐れず,穏やかで,平安な思いでいられます。 ステファノもそうです。 憎しみに満たされた裁き人たちにさえ,それが分かります。 なぜそれほど落ち着いていられるのでしょうか。 3 今日のクリスチャンは,この質問の答えから多くのことを学べます。 ステファノがこの重大な局面に立たされるまでの経緯も調べる必要があります。 ステファノはそれ以前に自分の信仰をどのように弁明していましたか。 わたしたちはどんな点でステファノに倣えますか。 4,5 (イ)ステファノが会衆にとって貴重な存在だったのはなぜですか。 (ロ)ステファノはどのように「慈しみと力に満ち」ていましたか。 4 ステファノは,誕生したばかりのクリスチャン会衆にとって貴重な存在でした。 この本の前の章で見たとおり,求めに応じて快く使徒たちを助けた7人の謙遜な男子の一人でした。 ステファノが賜物に恵まれていたことを考えると,その謙遜さはいっそう注目に値します。 に記されているように,彼は使徒たちの幾人かと同じく,「大いなる異兆としるし」を行なう能力を与えられていました。 そして,「慈しみと力に満ちた」人とも言われています。 これはどういう意味でしょうか。 5 ステファノは親切で優しい魅力的な人だったに違いありません。 その話し方には説得力があり,多くの人たちは,彼が心の誠実な人で健全な真理を教えていることを確信しました。 ステファノが力に満ちていたのは,その内にエホバの霊が働いていたからです。 その霊の導きに謙遜に服していたのです。 自分の賜物や能力ゆえに思い上がることはなく,すべての賛美をエホバに帰し,話す相手に愛ある気遣いを示しました。 無視できない存在だと反対者たちが感じたのも無理はありません。 6-8 (イ)反対者たちはステファノをどんな二つの点で訴えましたか。 なぜですか。 (ロ)ステファノの手本が今日のクリスチャンにとって有益と言えるのは,なぜですか。 6 様々な人がステファノと論じ合うために立ち上がりましたが,『彼が語るさいのその知恵と霊には対抗できませんでした』。 いら立った彼らは,「ひそかに人々を唆し」,キリストの追随者であるこの無実の人を告発させます。 さらに「民と年長者と書士たちをあおり立て」,力ずくでステファノをサンヘドリンに引いて行きます。 ()反対者たちは,ステファノを二つの点で訴えました。 神とモーセの両方を冒とくした,というのです。 どのようにでしょうか。 7 偽りの告発者たちは,ステファノが「この聖なる場所」すなわちエルサレムの神殿を悪く言って神を冒とくした,と述べました。 ()また,モーセの律法を悪く言ってモーセを冒とくした,と訴えました。 モーセが伝えたいろいろな習慣を変えた,というのです。 こうした訴えは非常に重大なものでした。 当時のユダヤ人は,神殿,モーセの律法の詳細な点,律法に加えてきた数々の口頭伝承を非常に重視していたからです。 それでステファノは,危険人物で死に値すると訴えられたのです。 8 残念ながら,宗教に携わる人たちがそうした策を用いて神の僕を悩ますのは珍しいことではありません。 今日でも,宗教上の反対者が世俗の指導者をあおり立ててエホバの証人を迫害することがあります。 わたしたちは,事実を歪曲した告発や偽りの非難を受けた時,どのように対応すべきでしょうか。 ステファノから多くのことを学べます。 9,10 批評家は,サンヘドリンでのステファノの話についてどんな主張をしていますか。 わたしたちはどんなことを思いに留めておく必要がありますか。 9 冒頭で述べたとおり,訴えを聞くステファノの表情は穏やかで,み使いのようでした。 カヤファは彼のほうを向いて,「これらのことはそのとおりなのか」と尋ねます。 ()いよいよステファノの語る番です。 ステファノは大いに語ります。 10 批評家の中には,ステファノの話を批判し,長い割りに訴えに対する答えには なっていないと主張する人もいます。 しかし実際には,ステファノは,良いたよりをどのように「弁明できる」かに関して見事な手本を示しています。 ()神殿をけなして神を冒とくした,律法を悪く言ってモーセを冒とくした,と訴えられていたことを思いに留めてください。 ステファノはイスラエルの歴史の三つの時代を要約しながら,幾つかの点を注意深く際立たせます。 では,その三つの時代を一つずつ考えてゆきましょう。 11,12 (イ)ステファノはアブラハムの例をどのように効果的に用いましたか。 (ロ)ステファノがヨセフのことを取り上げたのはなぜですか。 11 族長時代。 ( )ステファノはまず,ユダヤ人が信仰の人と仰ぐアブラハムについて話します。 この重要な共通の土台を据えつつ,「栄光の神」エホバが最初にアブラハムにご自分を明らかにされたのはメソポタミアであったことを際立たせます。 ()アブラハムは約束の地では外人居留者だったのです。 神殿もモーセの律法もありませんでした。 そうであれば,神への忠実さは常にそうした取り決めにかかっているなどと,だれが主張できるでしょうか。 12 ステファノの話を聞いていた人々は,アブラハムの子孫ヨセフも非常に重んじていました。 しかし,ヨセフの兄弟たちつまりイスラエル諸部族の父祖たちは義人ヨセフを迫害して奴隷として売った,ということをステファノは指摘します。 そのヨセフはイスラエルを飢きんから救う神の手だてとなりました。 ステファノは,ヨセフとイエス・キリストとの明らかな共通点に気づいていたに違いありませんが,できるだけ長く聴衆を引き付けておくために,あえてその点には触れません。 13 ステファノがモーセについて話したことは,どのように訴えに対する答えとなりましたか。 そのようにして,どんなテーマを発展させることができましたか。 13 モーセの時代。 ( )ステファノはモーセについてたくさんのことを話します。 それは賢明なことでした。 サンヘドリンの多くの成員はサドカイ人で,モーセの記した書だけを受け入れて聖書の他の書は退けていたからです。 また,ステファノがモーセを冒とくしたと訴えられていたことも思い出してください。 ステファノの言葉はその訴えに直接答えるものでした。 モーセと律法にとりわけ 深い敬意を抱いていることを示したからです。 ()さらにステファノは,モーセも自分が救おうとした人たちから退けられた,という点を指摘します。 モーセが40歳の時のことです。 それから40年が過ぎた後にも,民はモーセの指導に幾度となく異議を唱えました。 こうしてステファノは,神の民はエホバが指導者として任命した人たちを繰り返し退けた,という主要なテーマを着実に発展させてゆきます。 14 ステファノは,モーセの例を用いてどんな点を裏づけましたか。 14 モーセは自分のような預言者がイスラエルから起こることを予告していた,という事実をステファノは聞き手に思い起こさせます。 それはだれで,どのように迎えられるのでしょうか。 ステファノはその答えを結論まで伏せておきます。 ステファノは別の要点として,モーセが知るようになった事柄を述べています。 燃える茂みの所でエホバがモーセに話された時のように,どの土地も聖なるものとなり得るという点です。 そうであれば,エホバの崇拝はエルサレムの神殿のような一つの建物でしか行なえないのでしょうか。 考えてみましょう。 15,16 (イ)ステファノの論議の中で幕屋が重要だったのはなぜですか。 (ロ)ステファノはソロモンの神殿を用いてどのように論じましたか。 15 幕屋と神殿。 ( )ステファノは,エルサレムに神殿がなかった時代に神がモーセに幕屋を建造させたことを思い起こさせます。 幕屋は,崇拝のための移設可能な天幕式の構造物です。 モーセ自身が幕屋で崇拝をしたのであれば,幕屋が神殿に劣っているなどとだれがあえて主張するでしょうか。 16 後にソロモンはエルサレムに神殿を建てた時に,霊感を受けて,肝要な教訓となる点を祈りの中で述べました。 ステファノはその点を,「至高者は手で造られた家などに住まれるのではありません」と表現しています。 ()エホバはご自分の目的を推し進めるために神殿をお用いになるにしても,その場所に拘束されてはいません。 そうであれば,清い崇拝が人間の手で造られた建物に依存している,とどうして思うべきでしょうか。 ステファノはイザヤ書から引用して,この論点を次のような力強い結論へと持ってゆきます。 「天はわたしの王座,地はわたしの足台である。 あなた方はわたしのためにどんな家を建てるのか。 エホバは言われる。 また,わたしの休む場所とは何か。 わたしの手がこれらのすべての物を造ったのではなかったか」。 17 ステファノの話はどのように,(イ)聞き手の態度に注意を向けていましたか。 (ロ)訴えに答えるものでしたか。 17 こうしてサンヘドリンに対するステファノの話を考えてくると,訴えた者たちの態度にステファノが巧みに注意を向けている,と思われるのではないでしょうか。 ステファノは,エホバの目的が進展してゆく動的なものであって,伝統に縛られた静的なもの ではない,ということを示しました。 エルサレムの麗しい神殿に,またモーセの律法に付け加わった習慣や伝統に傾倒していた人たちは,律法と神殿の背後にある目的全体を理解していませんでした。 ステファノの話は次のような肝要な点を暗に指摘しています。 律法と神殿を敬う最善の方法はエホバに従うことではないか,という点です。 実のところ,これは彼自身の行動の優れた弁明となりました。 ステファノは最善を尽くしてエホバに従っていたからです。 18 どんな点でステファノに倣うよう努めるべきですか。 18 ステファノの話から何を学べますか。 ステファノは聖書に精通していました。 わたしたちも,「真理の言葉を正しく」扱うには,神の言葉を真剣に研究する必要があります。 ()ステファノから慈しみと巧みさについても学べます。 聴衆は極めて敵対的でしたが,ステファノはその人たちが高く評価する物事を取り上げてゆくことにより,共通の土台をできるだけ長く維持しました。 そして敬意をもって話しかけ,年長者には「父たち」と呼びかけました。 ()わたしたちも,神の言葉の真理を「温和な気持ちと深い敬意」をもって伝える必要があります。 19 ステファノは勇気をもって,エホバの裁きの音信をどのようにサンヘドリンに伝えましたか。 19 とはいえ,相手の気分を害することを恐れて神の言葉の真理を語るのを差し控えたりはしません。 エホバの裁きの音信を弱めたりもしません。 この点でもステファノは良い手本です。 ステファノは,サンヘドリンに提出したすべての証拠も,心のかたくなな裁き人たちには効果がないということを理解したに違いありません。 聖霊に動かされ,話の結論として,彼らはヨセフやモーセや預言者すべてを退けた父祖たちと全く同じである,ということを恐れずに示します。 ()モーセと預言者すべてはメシアの到来を予告していたのに,まさにその方をサンヘドリンの裁き人たちは殺害しました。 彼らは,最悪の仕方でモーセの律法を踏み越えたのです。 「これらのことを聞いて,彼らは心臓まで切られるように感じ,ステファノに向かって歯ぎしりしはじめた」。 エホバはステファノをどのように強めましたか。 20 ステファノの言葉が否定しがたい真実であったため,裁き人たちは激しい怒りに満たされます。 恥も外聞もかなぐり捨て,ステファノに向かって歯ぎしりします。 忠実なこの人は,主人イエスと同じく自分も容赦されない,ということが分かったでしょう。 21 ステファノは,これから起こる事柄に立ち向かう勇気を必要としています。 エホバがその時に親切にも与えてくださった幻から,大きな励みを得たに違いありません。 ステファノは神の栄光を目にし,み父の右にイエスが立っているのを見ます。 ステファノがその幻について述べると,裁き人たちは耳に手を当てます。 なぜでしょうか。 以前にイエスはこの法廷で,ご自分がメシアであること,また間もなくみ父の右につくことを 告げていました。 ()ステファノの幻は,イエスの言葉が正しかったことを証明しました。 サンヘドリンは,メシアを裏切って殺害したのです。 彼らはステファノに向かっていっせいに突進し,石打ちにさせます。 22,23 ステファノの死はどんな点で主人イエスの死と似ていましたか。 今日のクリスチャンがステファノのように確信に満ちていられるのはなぜですか。 22 ステファノは自分の主人と同じようにして死にました。 平安な思いを抱き,エホバを全く信頼し,自分を殺す者たちを許して死んでいったのです。 ステファノは「主イエスよ,わたしの霊をお受けください」と述べます。 おそらく幻の中でみ父と共に人の子を見ているからでしょう。 「わたしは復活であり,命です」というイエスの励みとなる言葉を知っていたに違いありません。 ()最後に,大きな声で直接神にこう祈ります。 「エホバよ,この罪を彼らに負わせないでください」。 そう言ってから,死の眠りにつきました。 23 こうしてステファノは,キリストの追随者のうちで,記録に残る最初の殉教者となりました。 (「」という囲みを参照。 )残念なことに,彼が最後ではありませんでした。 今日に至るまで,エホバの忠実な僕の中には,宗教的狂信者や政治的熱狂者などの激しい反対者によって殺された人たちがいます。 しかしわたしたちには,ステファノのように確信に満ちていられる理由があります。 イエスは今や王として統治し,み父から授かった驚嘆すべき力を行使しておられます。 イエスが忠実な追随者たちを復活させるのを妨げるものは何もありません。 聖書は殉教者ステファノについて述べる際に,マルテュスというギリシャ語を用いています。 この語には「証人」,つまりある行為や出来事を目にした人という意味があります。 とはいえ,このギリシャ語はそれ以上のことも意味します。 あるギリシャ語の辞書によれば,聖書中でマルテュスは,「行動する」人,「自分が見聞きした事を話すよう,また知っている事を告げるよう求められる」人を指しています。 真のクリスチャンすべてには,エホバとその目的について知っている事柄を証しする責務があります。 ()聖書の中でステファノは,イエスについて語ったゆえに「証人」と呼ばれています。 クリスチャンとして証しする人はしばしば,反対や逮捕や殴打,さらには死に直面します。 ですから,西暦2世紀にはマルテュスは,信仰を放棄せずにそのような結果に甘んじた人,つまり殉教者を指すようにもなりました。 それでステファノは,クリスチャンの最初の殉教者と呼ばれています。 とはいえ元来,ある人がマルテュスとみなされたのは,死んだからではなく証言したからでした。 24 サウロはステファノの殉教にどのように関係しましたか。 忠実なステファノの死はどんな影響を長く及ぼしましたか。 24 事の次第をサウロという若者が見ていました。 彼はステファノの殺害をよしとし,石を投げつけた者たちの外衣を見張ることまでしていました。 それからすぐに激しい迫害の波が起こり,サウロはその先頭に立ちます。 一方,ステファノの死は後々まで大きな影響を与えます。 その手本により,他のクリスチャンは忠実さを保って同様の勝利を収めるよう強められます。 さらにサウロ(後にはたいていパウロと呼ばれる)は,ステファノの死への関与を深い後悔の念をもって振り返ることになります。 ()ステファノの殺害にかかわりましたが,自分が「冒とく者であり,迫害者であり,不遜な者であった」ことを後に認めています。 ()パウロは,ステファノと彼の力強い話について忘れることはありませんでした。 事実,幾つかの話や手紙の中で,ステファノの話で扱われたテーマを論じています。 ()やがてパウロは,「慈しみと力に満ちた」人ステファノの残した信仰と勇気の手本に全く倣うようになりました。 では,わたしたちはどうでしょうか。

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慈しみに満ちた人、ブッダ

慈しみに満ちた

抱きしめたい。 感じたい。 できることなら。 求め合う二人が行き着く世界。 バイク事故による頚椎損傷のため、 36歳という若さで首から下の自由を失った俊作。 俊作のへルパーとして雇われた盲目の女・華恵。 次第に惹かれ合う二人。 否応もなく引きずり込まれる、むき出しで偽りのない、慈しみに満ちた男女の純愛物語。 第十回日本シナリオ大賞佳作を受賞した、 幻の作品『二人ノ世界』が、6年の歳月を経てついに劇場公開! 主演を務めるのは、国内外の名だたる映画監督たちとキャリアを積んだ永瀬正敏。 本作の脚本に惚れ込み、当時の学生制作チームに単身で飛び込み、顔だけの演技で主人公を怪演! 映画『赤い玉、』 高橋伴明監督 での大胆演技で注目を集め、今や数々の監督、俳優が太鼓判をおす女優・土居志央梨が盲目の女・華恵を熱演! 【ストーリー】 バイク事故による頸椎損傷のため、 36歳という若さで首から下の自由を失った俊作のもとに、 盲目の女・華恵がヘルパーとして現れる。 心を閉ざし悪態をつく俊作に、苛立ちを募らせる華恵だったが、 目の見えない彼女もまた、人には言えない大きな喪失感を抱えていた…。 京都・西陣を舞台に描かれる、二人きりの奇妙な介護生活と、その先で見つけた真実の愛とは…。

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♰「主の慈しみに満ちた眼差しから、私たちの回心が始まる」ー正午の祈りで

慈しみに満ちた

2013. 14 鴨下 直樹 主の復活をお祝いする第三週目を迎えました。 私たちの教会では前に七本の燭台を並べて、一つずつともし火を灯しております。 今朝は三つのともし火がついております。 この復活節の第三主日をラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言います。 今朝の詩篇の三十三篇の五節の言葉からとられています。 五節にはこのように記されています。 主は正義と公正を愛される。 地は主の恵みに満ちている。 このラテン語の「ミゼリコルディアス」という言葉は「慈しみ」と訳される言葉です。 それで、この日曜は「主の慈しみ」という名前の日曜日として、主の復活の第三週目につけられました。 ところが、この「慈しみ」という言葉が新改訳聖書にはありません。 新改訳聖書では「恵み」と訳されているからです。 新共同訳聖書をお読みしますと、このようになっています。 「主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみで満ちている」。 この「恵み」と訳された言葉が「慈しみ」と訳されていたことに気づかれたと思います。 初めからこのような説明の言葉で始めるのはあまり良くないと思いますけれども、この言葉が「恵み」とも「慈しみ」とも訳すことのできる言葉であるということがお分かりいただけるのではないかと思います。 この言葉の元の言葉はへブル語で「ヘセド」と言います。 これは旧約聖書の中に頻繁に使われている言葉で、やはり新改訳聖書では「恵み」と訳すことが多く、新共同訳では「慈しみ」と訳されることの多い言葉です。 実は、いつもですと礼拝の説教は講解説教と言いまして、ひとつの書物を順に学ぶ説教の方法をとっていますけれども、今年のイースターは教会暦で読むことになっている聖書を順に学んでみたいと考えています。 その大事な理由は、私たちの礼拝でいつも教会の暦が掲げられておりますけれども、何の為であるか良く分からないという方があると思います。 それで、完全に教会の暦に従って礼拝をすることは致しませんけれども、教会の暦というものが何を大事にしてきたのか。 特に復活節にそのことが明確に分かると思いますので、この復活節に教会暦ではどの聖書を読むような伝統があったのかということを知ることはとても良いことではないかと考えたからです。 それともう一つの理由は、実に、今日の箇所を説教したいと思ったからです。 教会暦で「主の慈しみ」という名前の主の日がある。 このヘブル語である「ヘセド」という大切な言葉について、どうしても一度ちゃんと説教をしたいと思ったのです。 もちろん、自分の子どもの名前をこの「慈しみ」という文字から「慈乃」と付けたこととも関係しますけれども、やはり、この聖書の大切な言葉についてぜひ知っていただきたいと考えたからです。 この慈しみとか恵みと訳されているヘセドという言葉には特別な神さまの心が込められているといってもいい言葉です。 カトリックの聖書学者で雨宮慧という方がずいぶん前になりますけれども『旧約聖書の心』という本を書かれました。 これはとても素晴らしい本で、まさに旧約聖書の心をつかむには実に有意義な本です。 特に、聖書の言語にとても精通しておられる方ですので、聖書の言葉の背景にあるものをかなり丁寧に説明してくれるのです。 この『旧約聖書の心』という本のなかにこのヘセドの意味を記している項目があります。 そこで紹介されている聖書はホセア書という小預言書です。 このホセア書というのは、少し変わった出来事が記されています。 このホセアには神さまの命令でゴメルという姦淫の女を妻に迎えます。 ところが、このゴメルはホセアの子どもを次々に産むのですが、夫を愛することなく、離れていっては姦淫の罪を犯すのです。 それに対して、神さまはホセアに語りかけます。 その夫に愛されていながら姦淫の罪を犯す妻を愛せよと命令されるのです。 なぜかというと、そのような苦しみを経験しているのはホセアだけではない。 私も、イスラエルの民に何度も裏切られても、この民を愛し続けているのだと語りかけるのです。 そこでこう語ります。 エフライムよ。 わたしはあなたに何をしようか。 ユダよ。 わたしはあなたに何をしようか。 あなたがたの誠実は朝もやのようだ。 とホセア書の六章の四節で主が語ります。 エフライムもユダも神の民、イスラエルのことです。 この新改訳で「あなたがたの誠実は朝もやのよう」と訳されている言葉、これは、新共同訳聖書では「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」となっています。 ここで、誠実とか愛と訳されている言葉が、「ヘセド」という言葉なのです。 そこで、雨宮先生はこういうふうにこの言葉を説明しておられる。 「ヘセドは、親と子、友人同士など、人と人を結ぶきずなのことである」と説明しているのです。 人間と人間のきずなを表す言葉がヘセドだというわけです。 この「絆」という言葉を私たちはこの二年の間、よく耳にするようになりました。 あの、東北で起こった大きな震災以降、人々は大切なのは人と人との絆だということを自分たちの言葉で言い表すようになったのです。 でも、絆と一口に言っても、それが何を意味するのかはみんなまちまちのイメージを持っています。 昨日も阪神で大きな地震がありました。 震度6弱の大きな地震でした。 それほど被害は大きくなかったようですけれども、阪神大震災というのも、私たちはその前に経験しています。 そういう経験からお互いに助け合おうという意味で絆ということが語られるようになったことはとても意味深いことだと思います。 このヘセドという言葉は、雨宮先生の説明によるとさらに二つの側面があると言います。 一つは両者を結ぶ愛で、もう一つはその愛に対する誠実さだと言うのです。 聖書がヘセドという言葉を使う時には、そこに両者を結びつけている愛があるのだということをまず語ります。 ですから、このホセア書のところを雨宮先生はまず取り上げるのです。 ホセアと妻ゴメルの愛です。 ホセアは誠実に妻を愛そうとします。 しかし、妻はこの夫の愛に答えようとしない。 ここで神さまが何をホセアに気づかせようとしておられるかと言うと、神と人を結ぶ絆のことを、聖書は「ヘセド」とまず呼んでいるのです。 神は人を愛しておられるがゆえに、ヘセドを示してくださるのです。 それは、愛とも言い表すことができるし、慈しみと言い表すこともできるのです。 この神の人への絆とは何に結びついているかと言うと、神の約束です。 そして、この神の愛に答えようとする時に、その人からの応答を、誠実と言うのです。 この場合の誠実もヘセドです。 だから、この言葉は誠実とも訳されるのです。 さて、少し説明が長くなってしまいましたが、この神のヘセドが私たちに示されたのは何であったかと言うと、それは、イエス・キリストによって示された十字架と復活です。 これによって、神が私たちをどんなに深い絆で愛してくださっているか、私たちを見捨てないで、私たちと関わり続けようとしてくださっておられるかがよく分かるのです。 それで、イースターの第三の主の日にはこう読んだのです。 「ミゼリコルディアス・ドミニ」。 「主の慈しみの主の日」と。 そして、この詩篇の第三十三篇の五節「地は主の慈しみで満ちている」というこの言葉を教会の礼拝で読むように定めたのです。 地震が起こるこの世界は神に見捨てられているのではない、こんなに悲しい事ばかりが起こるこの世界に、神に真実は行なわれないというのではない。 この世界にはこれほどはっきりと、神の慈しみが示されているのだ。 この世界には神の慈しみに満ちているのだと、復活をお祝いした人々に教会はそのように語り続けて来たのです。 問題は、私たちが気落ちしてしまう時に、この主の慈しみが分からなくなってしまうということです。 それは悲しみが自分をすっかり支配してしまって、神を見出すことが出来なくなってしまう時です。 宗教改革者のルターは実によく悩んだ人でした。 ベイントンという歴史学者がルターの代表的な伝記を記します。 『我ここに立つ』という本ですけれども、その中にルターがこんなことを言っています。 「気落ちする時の内容はいつも同じで、神は善であるし、神は私に対しても善であるという信仰の喪失であった」と。 神が良いお方、私に対しても神はその善をお示しくださるお方だということが信じられなくなるのだと言うのです。 誰もが経験のあることでしょう。 あの宗教改革者のルターも、ここで言う、神は慈しみ深い方であるということが信じられなくなったというのです。 なぜこうなるのかと言うと、キリストを見失ってしまっているからだと言います。 問題のほうばかりをみて、キリストを見上げることを忘れてしまうのです。 このルターの伝記の中で、神を見出すことができなくなることに対しての対処法をルターは二種類もっていたと書いています。 一つは、直接悪魔と戦うということをしたのだそうです。 その例としてこんなエピソードが書かれています。 私が寝床に行く時、悪魔はいつも私を待っている。 悪魔が私をいじめ始めると、私はこう答えることにしている。 「悪魔よ。 私は眠らなければならない。 昼間は働き、夜は眠れ、これが神の御命令だ。 だから出ていけ」と言うのだそうです。 そして、主イエスとカナンの女の出来事で、主がこの女に「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。 」と言われると、カナンの女は「主よ、そのとおりです。 ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。 」と答えた話があります。 ルターはこの話が大好きなんだそうですけれども、ここで主イエスはカナンの女に否定しておられる。 私たちが悩んでいる時というのは、このイエスの否定の言葉、ノーという言葉だけを聴いている。 けれども、このカナンの女は主イエスのノーという言葉の背後にイエス、いいよ、という言葉があることを聴きとっていた。 私たちは、隠れたイエスという言葉と向かい合って、この堅い信仰で神のみことばにしがみつく必要があるのだと言っています。 もう一つ、間接的に戦う方法もある。 それは、孤独にならないことだと言っているのです。 悩んでしまう時に、一人でいるのは良くない。 エバは一人で園を歩いている時にとんでもないことになったのだ。 だから、人と一緒に食事をし、踊り、ふざけて、歌うことが大事なのであって、断食するなどは最悪の方法だというのです。 そうすると、たとえば、自分の四歳の娘からだって正しい信仰に気づかされることもあるのだ。 「なぜ、信じないの」と言われる。 神さまは約束をまもってくださる方であることを単純に信じる。 そのために、外からの援助は大事にしなければいけないのだと言っているのです。 そして、特に、悪魔が責める時には「私は洗礼を受けている」と答えるたものだと言っているのです。 もう神の御業は行なわれているのだという、自分の外にある事実に目を向けることの中に、思い悩みから抜け出す道があるのだというのです。 教会の暦で、この朝、「地は、主の慈しみに満ちている」と言うのも、このことを私たちに教えているのです。 私たちの世界に救いがないのではないのです。 神が働いておられないのではないのです。 もう神は働いてくださったのです。 十字架にかかり、復活してくださったのです。 そして、その事実を私たちは確認する必要がある。 そのためにも、このようにして礼拝に集いながら、この主のみことばを共に聴くのです。 自分一人で悩みから乗り越えるのではなく、教会の人々と共に主の言葉に支えられて、主の救いの事実に支えられて、主の慈しみの御業を知るのです。 他の誰でもない、神ご自身は私たちとの絆を大事にしてくださるのです。 そして、そのことが伝わるように、愛してくださる、誠実に、真実に尽くしてくださるのです。 それが、主の十字架と復活の御業なのです。 お祈りをいたします。

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