三部経。 三部経大意

浄土三部経

三部経

< 序に代えて > 印度で前一二世紀頃に発達した大乗仏教は、四五世紀に入ると急速に変貌します。 菩薩の荷うべき六波羅蜜が、理想的ではあるが非現実的であるととらえられて、もっと手軽に仏に成る方法が模索されたのです。 般若波羅蜜という智慧は、遥か遠くに忘れ去られてしまい、大乗はかつての小乗のごとく、またしても空理空論にとらえられてしまいました。 そこでは、もはや六波羅蜜を実践することなど誰も顧みようとは致しません。 小乗の時代から仏教は、婆羅門教の哲学に強く影響を与えてきましたが、今では行き詰まりの打開を急ぐ仏教が、逆に婆羅門教の影響を受けることになりました。 『一切は心が造りだす』と考える唯識派は、もともと婆羅門教のサーンキヤ学派の影響を強く受けていただけに、ここにまたしてもヨーガ学派の影響を受けることになり、瑜伽行唯識派と変質して仏教界を主導するようになります。 この二つの教えが出会えば、当然起こりうることが、そのまま起こりました。 『心を鍛錬すれば、神通力を得ることができ、仏あるいは大力の菩薩に成ることができる』と考えるに至ったのです。 婆羅門教の影響を強く受けた結果は、実践面に於いて、ヨーガの行法を取り入れます。 智慧を磨くことを止め、心を鍛えることが中心になったということです。 次のような事が日課となりました。 (1)心を鍛錬して、超人的な力を得る。 (2)神に帰依して、礼拝し讃歎する。 (3)真言(呪文)によって、神に働きかける。 このようなものが修行法の中心的役割を荷うようになり、大乗から、浄土宗、禅宗、真言宗等の日本の諸宗派が生まれる下地ができました。 印度で五世紀に活躍した瑜伽行唯識派の世親は、 『往生論』の中で、 一礼拝:阿弥陀仏の形像を身にて礼拝する、 二讃歎:阿弥陀仏の名を口にて称える、 三作願:極楽に生まれたいと願う、 四観察:彼の国の荘厳の功徳を観察する、 五廻向:一切衆生を捨てず、皆共に仏と成るようにと願う。 と言い、 この五念門にて畢竟、 極楽に往生し阿弥陀仏にまみえると言っています。 また、唐で七世紀に活躍した善導は 『観経疏』の中で、 ひたすら 阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経等の浄土の、経典を読誦し、 彼の浄土を観察し、 彼の仏を礼拝し、 彼の仏の名を口で称え、讃歎供養して、 彼の国に往生する。 と言っています。 わが国では、 法然が、この二人の教えをほぼそのまま引きついで、浄土宗を立てました。 このような中、浄土諸家は仏教全体を二分して、極楽往生を旨とする教えを往生浄土門、その他の雑多な教えを皆ひっくるめて聖道門といいならわし、また浄土門は船に乗った旅のように安楽であるということから易行道、聖道門は茨の道を気の遠くなる程の時間をかけて行かなくてはならないので難行道と呼んで区別してきたのです。 以上、大乗から浄土教に至る過程を略してたどって見ました。 このように一見、大乗の教理からは遠く離れてしまったかにみえる浄土門ではありますが、しかし完全に離れてしまったかというと、あながちそうとばかりも言えません。 浄土門は、そのまたの名を他力門ともいいます。 『他力である阿弥陀仏の本願に、完全に身をまかせる』という教えであり、 それによって、かろうじて 『往生浄土門は大乗である。 』と言えるだけの面目を保っているのです。 ある浄土宗の高僧は、『他力の信仰とは、自らを他力にゆだね、まかせきるということである。 赤子が母親の腕の中で、まったく安心するように、親様である阿弥陀仏の腕の中に一切をゆだね、それでもって安心を得るということである。 そのような安心を得たとき、人はただ他の人の為に働くよりしようがないではないか。 他に何をすることがある。 もし、そうでなければ、他力は大乗であると、どうして言うことができよう。 』と言っています。 或はこの言葉は、大乗の本義を取り戻す、鍵であるやも知れません。 では、そのあたりを念頭に掛けて、経文を読んでみましょう。 数ある浄土教関連の経典の中から、特に『仏説無量寿経(康僧鎧 訳)』、『仏説阿弥陀経(鳩摩羅什 訳)』、『仏説観無量寿経(畺良耶舎 訳)』を選び浄土三部経と名づけたのは、法然上人です。 法然上人は、この時代も異なり、目的も異なる三部の経典を、敢て一つの経典の如くにして、浄土宗の所依の経典であるとされました。 三部経の異訳は、大正新脩大蔵経に次のものが摂められています。 1 無量清浄平等覚経 (平等覚経) 支婁迦讖 訳 2 仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏壇過度人道経 (大阿弥陀経) 支謙 訳 3 仏説無量寿経 康僧鎧 訳 4 大宝積経無量寿如来会 菩提流支 訳 5 大乗無量寿荘厳経 (荘厳経) 法賢 訳 以上、無量寿経とその異訳 6 仏説阿弥陀経 鳩摩羅什 訳 7 称讃浄土仏摂受経 玄奘 訳 以上、阿弥陀経とその異訳 8 仏説観無量寿経 畺良耶舎 訳 観無量寿経のみで異訳なし (岩波文庫 浄土三部経より) 今回、この三部の経典を取り上げて現代語訳し解説するにあたり、それとは別に各経典の特色をより際だたせながら三部経を総合的に解説した分を『浄土三部経講義』としてまとめました。 先に本文を読んで経文の内容に精通し、その後にこれをお読みください。 その他、各経典の歴史的事実などは、すべて省略します。 以上 < 総 目 次 > < > 1.序分 1-1.聴聞の大衆 2.正宗分 2-1.極楽の荘厳 2-2.極楽の上善人に会う 2-3.六方の如来、称讃する 3.流通得益分 3-1.願を発して往生する < > 1.序、菩薩功徳分 1-1.聴聞する声聞と菩薩 2.正宗立願分 2-1.阿難、世尊の悦びの理由を問う 2-2.世尊、喜んで阿難の為に説く 2-3.国王、沙門となり、法蔵と号す 2-4.法蔵、世自在王仏の前に願を立てる < > 2-5.重ねて偈を説く 2-6.法蔵比丘、国土を荘厳する 3.正宗極楽分 3-1.安楽世界 3-2.無量寿仏の光明と寿命 3-3.無量の声聞と菩薩 3-4.七宝の諸樹 3-5.無量寿仏の道場樹 3-6.諸の浴池 3-7.彼の国土の飲食 3-8.声聞菩薩の形貌と容状とは比類なし 3-9.その他の荘厳 < > 3-10.往生者の三輩 3-11.頌を説いて無量寿仏を称える 3-12.観世音、大勢至の光明を称える 3-13.彼の国の菩薩を称える 4.弥勒受勅分 4-1.三毒、その一、貪りの毒 4-2.三毒、その二、怒りの毒 4-3.三毒、その三、愚癡の毒 4-4.生死を厭うて、安楽国を願え < > 4-5.五悪五通五焼 4-6.その一悪、殺生 4-7.その二悪、偸盗 4-8.その三悪、邪淫 4-9.その四悪、妄語 4-10.その五悪、飲酒 4-11.仏の勅令 4-12.阿難、無量寿仏とその国土を見る 4-13.弥勒、胎生の因縁を訊ねる 5.菩薩往生分 5-1.他方世界の菩薩、往生する 6.流通得益分 6-1.弥勒に経を付属する 6-2.聞法の衆生、歓喜する < > 1.序分 1-1.阿闍世太子は父の王を幽閉して、母の韋提希は世尊に救いを求む 1-2.世尊、諸仏の国土を現して、韋提希に選ばしむ 2.正宗分 2-0.極楽に生まれる三福業 2-1.第一観、日想 2-2.第二観、水想 2-3.第三観、地想 2-4.第四観、樹想 2-5.第五観、八功徳水想 2-6.第六観、総観想 2-7.第七観、花座想 2-8.第八観、想像 2-9.第九観、一切色身想 2-10.第十観、観世音菩薩真実色身想 2-11.第十一観、大勢至菩薩真実色身想 2-12.第十二観、普観想 2-13.第十三観、雑想 < > 2-14.第十四観、上輩生想 2-15.第十五観、中輩生想 2-16.第十六観、下輩生想 3.流通得益分 3-1.阿難、経と阿弥陀仏の名を付属される < > 1.阿弥陀経講義 2.無量寿経上巻講義 3.無量寿経下巻講義 4.観無量寿仏経講義 以上 < あ と が き > もう一年ほども前のことになりますが、維摩経のめどが付いた所でしたので、次は何をやろうかと迷っていました。 そのことが何気なく声になったのでしょう、ちょうどそこに居合わせた家内に『次は何をやろう。 』と問いかけたところ、気のなさそうな声で、『もっと普通のものにすれば?』とつぶやくのが聞こえます。 これで次が決まりました。 普通のものといえば『浄土三部経』、これ以上にふさわしいものがあるだろうかと。 『般若心経入門』にはじまる一連の経文解説の中で、『浄土三部経』は、是非ともなさねばならぬ懸案であるのみならず、ある意味での終着点でもあります。 しかし、取りかかるには少しばかりの準備の必要があり、また躊躇するような理由も残っていました。 それは、道綽の『安楽集』、善導の『観経疏』、源信の『往生要集』、法然の『選択集』などの優れた論疏を、何のように扱えばよいか、そこの処の態度を、はっきりさせる必要があったのです。 なかでも『観経疏』は、論議の進め方に独特の妙があって理解しやすく、文章も解りやすく読みやすいので、まさにかっこうの手本として愛読し、座右を離しません。 これを、解説する上での基底とすれば、どれほど面白かろう。 しかし、これは明らかに世親の願求往生の態度を継ぐものであり、経の主旨と本来の目的を覆い隠すものである。 これを何のように扱えばよいか。 迷いに迷いました。 上に挙げた三部の経典と論疏を、連日のように読みふけり、やがてついに結論するに至ります。 やはり、本来の目的をつらぬこう、いかに優れたものであれ、目的を阻害するものは、一切を排除しよう。 と、これが結論です。 それ以後は順調に進みました。 現在、お読みいただいているとおりに、各段落、各文章の一字一句から、レイアウト、文字の色と大きさ、背景の色に至るまで、すらすらと何の問題もなく一気にできあがりました。 要旨も筋がすっきりと通り、曖昧な所がなく明確です。 やはり、これで善かったのです。 ある経典が作られる時、それ以前の経典はその基礎になりえますが、その後の経典、論疏はその基礎とはなりえません。 要は、般若経から三部経に至る経文のみにたより、その後に著された文献経文を捨て去ればよかったのです。 これで、経本来の面目を取り戻すことができるのです。 現代は、前時代の価値感が急速に失われた時代ですが、しかし仏教の価値も同時に失われたとまでは言えません。 行方を見失った時には、基本となる処まで戻り、方向を見定めることが急務です。 この浄土三部経解説は、このような意義をもって書き上げられました。 時代の変遷とともに、いつしか寺はその機能を失い、念仏もその魅力を失っております。 念仏が臨終のみのものであれば、それもまた当然のことでしょう。 皆、飽きるほどの長寿を楽しみ、死ねばそれまでと思っているのですから、念仏の必要など微塵もありません。 しかし、それは間違っています、平生にこそ念仏は必要なのです。 念仏とは南無阿弥陀仏、南無とは帰命すること、帰命とは自らの身心を他力に委ねること、これが南無阿弥陀仏です。 他力にすべてを委ねて、自らのことを計らない。 自ら他力の手足となり、他力の命に随順する。 他力の願いを自らの願いとする。 勘の鋭い方であれば、もうお分かりでしょう。 これは大乗の菩薩の空三昧、無相三昧、無願三昧、即ち三三昧と同じものなのです。 衆生の為に自らを空しうして働く菩薩の心理状態、これが南無阿弥陀仏なのです。 もし、この根本を見失ってしまえば、他力はただ言葉だけにすぎず、南無阿弥陀仏も、その意義を失ってしまいます。 願わくは、よろしくこの基本に立ち返り、ここに安心を見出だされんことを。 そのように読み取っていただければ、それはわたくしの非常なる幸いであります。 平成二十年一月 つばめ堂主人 著す 著者に無断で複製を禁ず。 Copyright c 2008 AllRightsReserved.

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浄土三部経のお勤め

三部経

真宗高田派本山専修寺に秘蔵されていた法然聖人の法語。 第十八願の根本願の他に、第十二願、第十三願、そして諸仏称揚の願の第十七願をあげ、称名の出拠とされている。 光明名号釋は親鸞聖人の両重因縁釋の原点であろう。 また、特異だといわれる親鸞聖人の至誠心釈の訓点についても、正確に法然聖人の意を継いでおられるのが判る。 上記の四願と『浄土論註』の「三願的証」の第十一願、第二十二願によって、第十八願の法義内容を開いたのが、第十七願(教と行)、第十八願(信)、第十一願(証)、第十二願、第十三願(真仏と真土)の五願であり、それによって教・行・信・証・真仏・真土の六法が完成していくと見られた。 これに第二十二願によって成就された還相を加えると六願七法になるのである。 なおページNo. は『真宗聖教全書』巻四による。 三部経大意 無量寿経 『』・『観无量寿経』・『阿弥陀経』、これを浄土の三部経といふなり。 『双巻経』には、まづ阿弥陀仏のをとき、つぎに願の成就をあかせり。 その四十八願といふは、、のみまへにして、をおこして、浄仏国土・成就衆生の願をたてたまへり。 おほよそ、その四十八願は、あるいはともたて、ともとき、或はともいひ、ともちかふ。 みなこれ、かの国の荘厳、ののちのなり。 この中に、衆生の彼国にむまるべき行をたてたまへる願を、 第十八の願とするなり。 ただ、五逆と、正法を誹謗するものを除く。 {巻上} と云々。 おほよそ四十八願の中に、この願ことにすぐれたりとす。 そのゆえは、かの国むまるゝ衆生ならば、も、も、なにゝよりて成就せむ。 往生する衆生のあるにつけてこそ、身のいろも金色に、好醜あることもなく、おもえ、おも具すべけれ。 おほよそ、諸仏の願といふは、のこゝろなり。 ある大乗経にいはく、「菩薩の願に二種あり。 一には上求菩提、二には下化衆生なり。 その上求菩提の本意は、衆生をしやすからむがためなり」と云々。 しかれば、たゞ本意下化衆生のこゝろにあり。 いま弥陀如来の浄土を荘厳したまひしも、衆生を引摂しやすからむがためなり。 すべからく、いづれの仏も成仏ののちはの功徳、の、いづれもふかくして勝劣あることなけれども、行菩薩道の時ののちかひ、みなこれまちまちなり。 弥陀如来はのとき、 もはら我名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、の修行を衆生に 廻向したまふ。 濁世の我等が、生死の出離これにあらずは、なにおか期せむ。 これによりて、かの仏は、「われよにこえたる願をたつ」 となのりたまへり。 三世の諸仏もいまだかくのごときの願おばおこしたまはず、十方のもいまだかゝるちかひはましまさず。 「この願もしすべくは感動すべし。 虚空の諸天まさに珍妙の華をふらすべし」{巻上}とちかひしかば、大地六種に振動し、天よりはなふりて、なむぢまさに正覚をなるべしとつげき。 法蔵比丘、いまだ仏になりたまはずとも、この願うたがふべからず、いかにいはむや成仏ののちになりたまへり、信ぜずはある べからず。 まさに知るべし。 本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得。 ただ五逆と、正法を誹誇するものを除く。 *御開山の訓ではなく当面読みで読んだ {巻下}といへり。 これは第十八の願成就の文なり。 願には「乃至十念」 ととくといへども、まさしくは願の成就することは、一念にありとあかせり。 次に往生の文あり。 これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。 等の業をもて、三輩をわかつといへども、往生の業は通じて、みな「」といへり。 これすなわち、この仏の本願なるがゆへなり。 漢朝に玄通律師というものあり、小乗戒をたもつものなり。 遠行して野に宿したりけるに隣坊に人ありて此文を誦しき。 玄通これをきゝて、一両遍誦してのちに、おもいいづることもなくしてわすれにき。 そのゝち玄通律師戒をやぶりて、そのつみによりて閻魔の庁にいたる。 そのときに閻魔法王ののたまわく、なむぢ仏法流布のところにむまれたりき。 所学の法あらば、すみやかにとくべしと高座においのぼせられしきときに、玄通高座にのぼりておもひまわすに、すべてこころにおぼゆることなし。 むかし野宿にてきゝし文ありき。 これを誦してむとおもひいでて、「其仏本願力」と云ふ文を誦したりしかば、閻魔王たまのかぶり をかたぶけ て、こはこれ西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて礼拝したまふと云々。 願力不思議なること、この文にみえたり。 則ちこれ無上の功徳を具足する。 {巻下}といへり。 弥勒菩薩にこの経をしたまふには、するをもちて大利无上の功徳とのたまへり。 経の大意、この文にあきらかなるものか。 観無量寿経 次に『観経』には定善・散善をとくといへども、念仏をもちて阿難尊者に付属したまふ。 といへる、これなり。 といふ文あり、済度衆生の願は平等にしてあることなれども、縁なき衆生は利益をかぶる事あたはず。 このゆへに弥陀 平等の慈悲にもよおされて、十方世界にあまねく光明をてらして、転 うたた 、一切衆生にことごとく 縁をむすばしむがために、光明無量の願をたてたまへり、 これなり。 つぎに名号をもて 因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。 これなり。 その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願 をたてたまへり、 これなり。 このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおのの仏ましまして、おなじくこれをしめ したまへるなり。 しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。 {大経巻上}とちかひたまひし、このゆへなり。 しかればすなわち、 光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。 このゆへに『往生礼讃』の序にいはく、「諸仏の所証は平等にして、これひとつなれども、もし願行をもてきたしおさむれば、因縁なきにあらず。 しかも弥陀世尊もと深重の誓願をおこして、光明・名号をもて十方を摂取したまふ」 といへり。 又このぐわんひさしくして衆生をせむがために寿命無量の願をたてたまへり、 これなり。 しかれば光明無量の願、横に一切衆生を廣く摂取せむがためなり、寿命無量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せむがためなり。 かくのごとく因縁和合すれば、の光明つねにてらしてすてたまはず。 この光明にまた・ましまして、この人をして百重・千重したまふに、信心いよいよ増長し、衆苦ことごとく消減す。 臨終の時には仏みづからきたりてむかへたまふに、もろもろの邪業繋よくさうるものなし。 これは衆生いのちおはる時にのぞみて、百苦きたりせめて身心やすきことなく、悪縁ほかにひき、妄念うちにもよをして、境界・自体・当生の きおいおこりて、第六天の魔王も、この時にあたりて威勢をおこしてさまたげをなす。 かくのごときの種種のさはりをのぞかむがために、しかも臨終の時にはみづから菩薩聖衆と囲繞して、その人のまへに現ぜむといふ願をたてたまへり。 これなり。 これによりて臨終のときにいたりぬれば、仏来迎したまふ。 行者これをみて、こころに歓喜をなして禅定にいるがごとくして、たちまちに観音の蓮台にのりて、安養のにいたるなり。 これらの益あるがゆへに、「念仏衆生摂取不捨」といへり。 そもそもこの経に、「具三心者必生彼国」 ととけり。 一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。 三心まちまちにわかれたりといえども、要をとりて詮をえらびてこれをいへば、深心ひとつにおさまれり。 善導和尚釈してのたまはく、「至といふは真なり、誠といふは実なり、一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべきことをあかさむとす。 ほかには賢善精進の相を現じ、うちには虚仮をいだくことをえざれ」{散善義}といへる、その解行といふは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願によりて十声・一声決定してむまると、真実にさとりて行ずる、これなり。 ほかには本願を信ずる相を現じて、うちには疑心をいだく、これは不真実のさとりなり。 ノート参照} ほかにはの相を現じて、うちにはなる、これは不真実の行なり、虚仮の行なり。 「貪・瞋・邪偽・ 奸詐百端にして悪性やめがたし、事 におなじ。 三業をおこすといゑども、なづけてとす、またの行となづく、真実の業となづけず。 もしかくのごとく安心・起行をなすも、たとひ身心を苦励して、日夜十二時に急走急作して、頭燃をはらふがごとくするものは、おほく雑毒の善となづく。 この雑毒の善をめぐらして、かの仏の浄土にむまれむともとめむものは、これかならず不可なり。 なにをもてのゆへに。 彼阿弥陀仏の、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も三業に修するところ、みなこれ真実心の中になす。 おほよそ施為趣求するところ、またみな真実なるによる。 又真実に二種、一には自利の真実、二には利他の真実なり。 真実に自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切菩薩とおなじく、諸悪をすて諸善を修し、真実の中になすべし」{散善義}といへり。 このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。 ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。 これにつきて の義あるべし。 摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。 別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり。 そのゆへは『疏』の『玄義分』の序題の下にいはく、「定はすなわちおもひをとどめてこころをこらし、散はすなわち 悪をとどめて善を修す。 この二善をめぐらして往生をもとむるなり。 弘願といふは、大経にとくがごとし。 一切善悪の凡夫むまるることをうるは、みな阿弥陀仏のに乗じてとせずといふことなし」といへり。 自力をめぐらして他力に乗ずること、あきらかなるものか。 しかればはじめに、「一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべし。 外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、うちに虚仮をいだければなり」。 そのといふは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願に乗じて十声・一声決定してむまるべしと、真実心に信ずべしとなり。 外には本願を信ずる相を現じて、内には疑心を懐、これは不真実の心なり。 次に、「貪・瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性やめがたし、事蛇蠍におなじ。 三業をおこすといへども、なづけて雑毒の善とす、また虚仮の行となづく、真実の善となづけず」といふなり。 自他の諸悪をすて三界・六道毀厭して、みな専 もっぱら 真実なるべし。 かるがゆへに至誠心となづくといふ。 これらはこれ摠の義なり。 ゆへはいかむとなれば、深心の下に、「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁あることなしと信ずべし」といへり。 もしかの釈のごとく、一切の菩薩とおなじく諸悪をすて行住座臥に真実をもちゐるは悪人にあらず、煩悩をはなれたるものなるべし。 かの分段生死をはなれ、初果を証したる聖者、なほ貪・瞋・痴 等の三毒をおこす。 いかにいはむや、一分の悪おも断ぜざらむ罪悪生死の凡夫、いかにしてかこの真実心を具すべきや。 このゆへに 自力にて諸行を修して至誠心を具せむとするものは、もはらかたし。 千が中に一人もなしといへる、これなり。 すべてこの三心、念仏および諸行にわたりて釈せり。 文の前後によりてこころえわかつべし。 例せば、四修の中の無間修を釈していはく、「相続して恭敬・礼拝・称名・讃嘆・憶念・観察・廻向発願して、心心相続して余業をもてきたしへだてず、かるがゆへに無間修となづく。 又 貪・瞋・煩悩をもてきたしへだてず、随て犯せばして、念をへだて時をへだて月をへだてず、つねに清浄ならしむ、又無間修となづく」{礼讃}といへり。 これも念仏と余行とわかち釈せり。 はじめの釈は貪・瞋等おばいはず、余行をもてきたしへだてざる無間修なり。 後の釈は行の正雑おばいはず、貪・瞋等の煩悩をもてきたしへだてざる無間修なり。 しかのみならず、『往生礼讃』の二行の得失を判じて、「上のごとく念念相続していのちおわるを期とするものは、十はすなわち十ながらむまる。 なにをもてのゆへに、仏の本願と相応するがゆへに、の心あることあるがゆへに」といへり。 この中に、「貪・瞋・諸見の煩悩きたり間断するがゆへに」といへるは、ひとり雑行の失をいだせり。 爰 ここに しりぬ、余行においては貪・瞋等の煩悩をおこさずして行ずべし といふことを。 これに順じてこれをおもふに、貪・瞋等をきらふ至誠心は余行にありとみえたり、いかにいはむや廻向発願の釈は、水火の二河にたとひをひきて、「愛欲・瞋恚つねにやき、つねにうるほして止事なけれども、深信の白道たゆることなければむまるることをう」といへり。 決定してふかく自身はこれ罪悪生死の凡夫なり、より已来 このかた つねに流転して出離の縁あることなしと信じ、決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願をもて衆生をしたまふに、うたがひなくうらおもゐなく、かの願力に乗じて、さだめて往生することをうと信ずべし」{散善義}といへり。 はじめに、まづ、「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁あることなしと信ぜよ」といへる、これすなわち断善の闡提のごときのものなり。 かかる衆生の一念・十念すれば、无始より已来 生死輪廻をいでて、極楽世界の不退の国土に生ずといふによりて、信心はおこるべきなり。 仏の別願の不思議は、ただ心のはかるところにあらず、ただ仏と仏とのみよくしりたまへり。 阿弥陀仏の名号をとなふるによりて、五逆・十悪ことごとくむまるといふ別願の不思議力のまします、たれかこれをうたがふべきや。 諸仏の教行は、かず塵沙にこえ、の機縁心にしたがひてひとつにあらず、世間の人のまなこにみつべし、信じつべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有をふうみ、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。 かくのごときの事は、ことごとくとなづく。 すなわち目にみつべし、千差万別なり、いかにいはむや仏法不思議のちからをや、あに種種の益なからむや」といへり。 極楽世界に水鳥・樹林、徴妙の法をさえづるも不思議なれども、これおば仏の願力なればと信じて、なむぞただ第十八のといふ願をのみうたがふべきや。 すべて仏説と信ぜば、これも仏説なり。 華厳の三無差別、般若の尽浄虚融、法華の実相皆如、涅槃の悉有仏性、たれか信ぜざらむ。 これも仏説なり、かれも仏説なり、いづれおか信じ、いづれおか信ぜざらむや。 これ三字の名号はすくなしといへども、如来所有のの功徳、万徳恒沙の甚深の法門を、この名号の中におさめたる、たれかこれをはかるべき。 『疏』の「玄義分」に、この名号を釈していは く、「阿弥陀仏といふは、これ天竺の正音、ここには翻じて无量寿覚といふ。 無量寿といふは、これ法なり。 覚といふは、これ人なり。 人法ならびにあらはすゆへに阿弥陀仏といふ。 人法といふは所観の境也。 これにつきてあり、あり」といへり。 しかれば弥陀如来、観音・勢至・普賢・文殊・地蔵・龍樹よりはじめて、乃至かの土の菩薩・声聞等のそなへたまへるところの事理の観行、定慧の功力・内証の実智、外用の功徳、すべて万徳无漏の所証の法門みなことごとく三字の中におさまれり。 すべて極楽世界にいづれの法門かもれたるところあらむ。 しかるをこの三字の名号おば、諸宗おのおの我宗に釈しいれたり。 真言には阿字本不生の義、八万四千の法門阿字より出生せり。 一切の法は阿字をはなれたることなし。 かるがゆへに功徳甚深の名号なりといへり。 天台には空・仮・中の三諦、性・縁・了の三法義、法・報・応の三身如来なり、所有の功徳莫大なりといふ。 かくのごとく諸宗おのおのわが存ずるところの法につきて、阿弥陀の三字を釈せり。 いまこの宗のこころは、真言の阿字本不生の義おも、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道のむねも、法相の五重唯識のこころも、すべて一切の万法ひろくこれにおさむとならふ。 極楽世界にもれたる法門なきがゆへなり。 ただし、いたく弥陀の願のこころはかくのごとくさとれとにはあらず、ただふかく信心をいたして となふるものをむかへむと也。 ・が万病をいやす薬は、万草諸薬をもて合薬せりといへども、その薬草なんぶん和合せりとしらねども、これを服するに万病ことごとくいゆるがごとし。 ただしうらむらくは、この薬を信ぜずして、我病はきわめておもし、いかがこの薬にていゆることあらむとうたがひて服せずは、耆婆が医術も、扁鵲が秘方も、むなしくてその益あるべからざることを。 弥陀の名号もかくのごとし。 わが煩悩悪業のやまう、きわめておもし、いかがこの名号をとなへてむまるることあらむとうたがひてこれを信ぜずは、弥陀の誓願、釈尊の所説も、むなしくて験あるべからざるものか。 ただあふいで信ずべし。 良薬をもて服せずして死することなかれ。 のやまにゆきて玉をとらずしてかへり、の林に入て枝をおらずしていでなむ後悔いかがせむ、みづからよく思量すべし。 そもそも我等曠劫よりこのかた、仏の出世にもあひけむ、菩薩の化導にもあひけむ、過去の諸仏も現在の如来も、みなこれの父母なり、多生の朋友なり。 これにいかにしてか菩提を証したまへるぞ、われらはなにによりて生死にとどまれるぞ、はづべしはづべし。 しかるに本師釈迦如来、大罪の山にいり、邪見の林にかくれて、三業放逸にまたからざらむ衆生を、わがくににとりおきて教化度脱せしめむとちかひ たまひたりしかば、そもそもいかにしてかかる諸仏のこしらへかねたまへる衆生おばせしめむとはちかひたまへるぞとたづぬれば、阿弥陀如来のの時、とまふししよに、菩提心をおこして生死を過度せしめむとちかひたまひしに、釈迦如来はとまふしき。 無浄念王菩提心をおこし摂取衆生の願をたてて、われ仏になれらむとき、十方三世の諸仏もこしらへかねたまひたらむ悪業深重の衆生なりとも、我名をとなへばみなことごとくむかへむとちかひたまひしを、宝海梵士ききおはりて、われかならず穢悪の国土にして正覚をとなへて、悪業深重、輪廻無際の衆生等にこのことをしめさむ。 衆生これをききてとなへば、生死を解脱せむこと、はなはだやすかるべしとおぼしめして、この願をおこしたまへり。 曠劫よりこのかた、諸仏よにいでて、縁にしたがひ、をはかりて、おのおのを化したまふこと、かずにすぎたり。 あるいはをときをとき、或はをひろめをひろむ。 機縁純熟すればみなことごとくその益をう。 ここに釈尊、を五濁世にとなへて、放逸邪見の衆生の出離、その期なきことをあはれみて、これより西方に極楽世界あり、仏まします、阿弥陀となづけたてまつる。 とちかひて、すでに仏になりたまへり。 すみやかにこれを念ぜよ、出離生死の道おほしと いゑども、悪業煩悩の衆生の、とく 生死を解脱すべきこと、これにすぎたることなし、とおしへたまひて、ゆめゆめこれをうたがふことなかれ、六方恒沙の諸仏もみなおなじくしたまへるなり、と、ねむごろにおしへたまひて、 われもひさしく穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、われをそしり我をそむきて、かへりてにおちなむ、われよにいづることは、本意ただこのことを衆生にきかしめむがためなりとて、阿難尊者にむかひて、汝よくこのことをとおきよに流通せよ、と、ねむごろにやくそくしおきて、抜提河のほとり、のもとにて、八十の春の天、二月十五の夜半に、にしてにいりたまひにき。 そのときに日月ひかりをうしなゐ、草木色を変じ、、禽獣・鳥類にいたるまで、天にあふぎてなき、地にふしてさけぶ。 阿難・目連等の諸大弟子、悲涙のなみだをおさへて相議していはく、 われら釈尊の恩になれたてまつりて八十年の春秋をおくり、化縁ここにつきて、黄金のはだえたちまちにかくれたまひぬ。 あるいは我等釈尊にとひたてまつるに、こたえたまふこともありき。 あるいは釈尊みづからつげたまふこともありき。 済度利生の方便、いまはたれにむかひてかとひたてまつるべき、すべからく如来の御ことばをしるしおきて、未来にもつたへ、御かたみにもせむ、といひて、をひろいてことごとくこれをしるしおきて、 達これを訳してにわたし、本朝につたへ、諸宗につかさどるところの一大聖教これなり。 しかるを阿弥陀如来、善導和尚となのりて、唐土にいでてのたまはく、 如来出現於五濁 如来五濁に出現して 随宜方便化群萌 随宜方便して群萌を化す 或説多聞而得度 或いは多聞にして得度すと説き 或説少解証三明 或いは少解をもって三明を証すと説く 或教福慧双除障 或いは福慧双に障りを除くと教え 或教禅念坐思量 或いは禅念し坐して思量せよと教う 種種法門皆解脱 種種の法門皆解脱すれども 無過念仏往西方 念仏して西方に往くに過ぎたるはなし 上尽一形至十念 上一形を尽し十念に至り 三念五念仏来迎 三念五念まで仏来迎したまう 直為弥陀弘誓重 直に弥陀の弘誓重きがために 致使凡夫念即生 凡夫をして念ずれば即ち生ぜしむることを致す と。 釈尊出世の本懐、ただこのことにありといふべし。 自信教人信 自ら信じ、人をして信ぜしむ 難中転更難 難が中に転たさらに難し 大悲伝普化 大悲を伝えて普く化すれば 真成報仏恩 真成に仏恩を報ずるなり といへり。 釈尊の恩を報ずる、これたれがためぞや、ひとへに我等がためにあらずや。 このたびむなしくてすぎなば、出離いづれのときをか期せむとする。 すみやかに信心をおこして生死を過度すべし。 次に廻向発願心は人ごとに具しやすきことなり。 国土の快楽をききてたれかねがはざらむや。 そもかのくにに九品の差別あり、われらいづれの品おか期すべき。 善導和尚の御こころに、「極楽の弥陀は報仏報土なり、未断惑の凡夫はすべてむまるべからずといへども、弥陀の別願の不思議にて、罪悪生死の凡夫の一念・十念してむまる」 {玄義分意}と釈したまへり。 しかるを上古よりこのかた、おほくは下品といふとも たむぬべし なむどいひて、上品をねがはず、これは悪業のおもきにおそれて、心を上品にかけざ るなり。 もしそれ悪業によらば、すべて往生すべからず、願力によりてむまれば、なむぞ上品にすすまむことをのぞみがたしとせむや。 すべて弥陀の浄土をまうけたまふことは、願力の成就するゆへなり。 しからばまた念仏の衆生のまさしくむまるべき国土なり。 、とたてたまへり。 この願によりて感得したまへるところの国土なるがゆへなり。 いま又観経の九品の業をいはば、下品は五逆・十悪の罪人、命終の時にのぞみて、はじめて善知識のすすめによりて、或十声、あるいは一声称して、むまるることをえたり。 われら罪業おもしといゑども、五逆をつくらず。 行業おろかなりといゑども、一声・十声にすぎたり。 臨終よりさきに弥陀の誓願をききえて、随分に信心をいたす。 しかれば下品まではくだるべからず。 中品は小乗の持戒の行者、・等の行人なり。 これ中々むまれがたし。 小乗の行人にあらず、たもちたる戎もなし、われらが分にあらず。 上品は大乗の凡夫、菩提心等の行者なり。 菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、 浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり。 念仏はこれ大乗の行なり。 無上の功徳也。 しかれば上品の往生、てをひくべからず。 又本願に「乃至十念」とたてたまひて、臨終現前の願に「大衆囲繞して、その人のまへに現ぜむ」とたてたまへり。 中品は化仏の三尊、あるい は金蓮華等来迎すといへり。 しかるを大衆と囲繞して現ぜむとたてたまへり。 大願の意趣上品の来迎をまうけたまへり、なむぞあながちにすまはむや。 又善導和尚、「三万已上は上品の業」{観念法門}とのたまへり。 数返によりて上品にむまるべし。 又三心につきて九品あり、信心によりても上品に生ずべきか。 上品をねがふこと、わがみのためにあらず、かのくににむまれおはりて、とく衆生を化せむがためなり。 これ仏の御心にかなはざらむや。 阿弥陀経 次に阿弥陀経は、まづ極楽のの功徳をとく。 衆生の願楽の心をすすめむがためなり。 のちに往生の行をあかす。 「少善根をもては、かのくににむまるることをうべからず、阿弥陀仏の名号執持して、一日七日すれば往生す」とあかせり。 衆生のこれを信ぜざらむことをおそれて、六方におのおの恒沙の諸仏ましまして、大千に舌相をのべて証誠したまへり。 善導釈してのたまはく、「この証によりてむまるることをえずは、六方の如来ののべたまへるみした、ひとたびくちよりいでてかへりいらずして、自然にやぶれただれしめむ」とのたまへり。 しかるを、これをうたがふものは、ただ弥陀の本願をうたがふのみにあらず、釈尊の所説をうたがふなり。 釈尊の所説をうたがふは、六方恒沙の諸仏の所説をうたがふなり。 これ大千にのべたまへる舌 相をやぶりただらかすなり。 もしまたこれを信ずれば、ただ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、釈迦の所説を信ずるなり、釈迦の所説を信ずるは、六方恒沙の諸仏の所説を信ずるなり。 一切諸仏を信ずれば、一切菩薩を信ずるになり。 この信ひろくして広大の信心也。 南无阿弥陀仏 正嘉二歳戌午八月十八日書写之 参照: 末註:• たとい我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ。 ただ、五逆と、正法を誹謗するものを除く。 もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ。 326で、阿弥陀仏の浄土は報土である理由として、以下の文を挙げ「一一願言 若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」(一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉)、四十八願の全てに第十八願の意があるとされた。 「われよにこえたる願をたつ」。 重誓偈の「我建超世願 必至無上道 われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん 」の文。 法然聖人の主著は『選択本願念仏集』であり、法然教学のキーワードでもある。 選択本願念仏とは、因位の阿弥陀仏の兆載永劫の修行は、その本願に易行の念仏(なんまんだぶ)を選択(摂取)し、衆生に回施するためであったとする。 かの仏、今現にましまして成仏したまえり。 まさに知るべし。 本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得。 711。 親鸞聖人は『教行証』の後序で、法然聖人から「真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまふ。 」と感佩しておられる。 なお、原文の「彼仏今現在〔世〕成仏」の世の字を省かれている。 もろもろの衆生あって、その名号を聞き、信心歓喜し、乃至一念、至心に廻向して、かの国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得て、不退転に住す。 ただ五逆と、正法を誹誇するものを除く。 御開山の訓ではなく当面読みで読んだ• すなわち十念に至るまで。 法然聖人はこの一念を行の一念(一声)とみられたが、御開山は信の一念であるとされた。 『大経』の異訳である『無量寿如来会』に「他方の仏国の所有衆生、無量寿如来の名号を聞きて、乃至、能く 一念の浄信を発して歓喜愛楽し、所有の善根を廻向して、無量寿国に生ぜんと願ずる者は、願に随いてみな生じて、不退転、乃至、無上正等菩提を得ん。 五無間・誹毀正法、及び謗聖者を除く。 」と、一念の浄信の語があったからである。 その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。 『無量寿経』下巻「往覲偈」p. 46の文。 御開山は「行文類」p. 142と「信文類」p. 250でこの文を引文されておられる。 いわゆる「破地獄の文」である。 なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ• 閻魔王がかぶっている珠のついたかぶりもの。 仏、弥勤に語げたまわく、それかの仏の名号を聞くこと得ることあって、歓喜踊躍して乃至一念せんに、まさに知るべし、この人は大利を得たりとす。 則ちこれ无上の功徳を具足する。 81の一念の念仏大利の文。 御開山は「教文類」p. 135で、「この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで 功徳の宝を施することを致す。 釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに 真実の利をもつてせんと欲すなり。 」とされている「真実の利」とは、この流通分の「無上功徳」である、一念のなんまんだぶであるとされておられる。 なんぢ、よくこの語を持て。 この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり)」p. 117と、無量寿仏名 なんまんだぶ を称えることを教示されたことをいう。 光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。 571と、念仏(なんまんだぶ)を称える者を、ひとたび摂取して永く捨てぬから阿弥陀仏というのであるとされる。 そして阿弥陀仏に摂取されているから、当来滅度(往生成仏)は決定しているので、現生正定聚(現生〔この世において〕、浄土に往生し仏になることに決定した者)であるとされた。 御開山はこの「諸仏称揚の願」の名を行文類の願名列挙の最初に挙げておられる。 われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。 24の重誓偈の文。 「行巻」「両重因縁釈」p. 187の原型であろう。 法然聖人は「玄義分」の「一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」の文から、四十八願を総摂するのが第十八願だとみておられた。 そして第十九願、第二十願は第十八願に随伴する願だとみられていた。 この意から第十九願の来迎は第十八願の利益をあらわす願だと見られていた。 三心を具するものは、かならずかの国に生ず。 108の文。 浄土門では、この必生の 必という語を重要視された。 法然聖人は至誠心、深心、回向発願心の三心は深心におさまるとみておられた。 『西方指南抄』「十七条御法語」にも「又云、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。 経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。 」とある。 疏文の当面では、法蔵菩薩と同じような三業を修しなければならないとされているので、我等が分に超えたりと言われている。 なお、『和語灯録』所収の「三部経釈」には、この至誠心釈での定・散・弘願の三門、総・別、自力・他力の部分が欠落していることに注意。 梯實圓和上は『法然教学の研究』p. 283で「けだし良忠の弟子で、忠実な鎮西義の伝承者でもあった了恵は、「三部経釈」を収録するにあたって良忠の義に従ってこの部分を削除したと推察することもできよう」といわれている。 ここで、法然聖人は、定善と散善それに弘願という三種の法門があらわされていると見ておられたことが判る。 また、『西方指南抄』所収の「十七条御法語」でも「予 よが ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。 」といわれている。 なお、鎮西派の良忠上人は『淨土宗要集』で「第四、問何名要門弘願耶 答、要門者定散二善 即往生之行因也。 故文云 迴斯二行。 弘願者 彌陀本願即往生之勝縁也。 故文云 爲增上縁。 是則因縁和合 得往生果也(第四。 問う、何ぞ要門・弘願と名づくや。 答う、要門は定散二善、即ち往生の行因也。 故に文に斯の二行を迴してと云う、弘願は彌陀の本願、即ち往生の勝縁也。 故に文に増上縁と為すと云。 是れ則ち因縁和合して往生の果を得る也。 )」と、されて、要門と弘願は、因と縁の関係にあり、要門(因)と弘願(縁)が相依って往生の(果)を得るとされている。 これは増上縁を、仏果を引く優れた縁と解釈し、定・散の二行を回向して阿弥陀仏の大願業力に乗ずるのだとされるのである。 『選択集』では、不得を内懐虚仮までかけて、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 」とされている。 ここでは親鸞聖人と同じく、不得を外現賢善精進之相にかけ「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、うちに虚仮をいだければなり」とされ、内懐虚仮であるから賢善精進の相を現じるなと言われている。 何故なら真実に内懐虚仮でないものは次下にあるように「悪人にあらず、煩悩をはなれたるものなるべし」であるからである。 疏文のままでは、法然聖人が「すこぶるわれらが分にこえたり。 」と仰った通りであろう。 ) 『醍醐本一期物語 と、いわれた由縁である。 三反目に、乱想の凡夫は、称名の行に依って、往生すべしとの道理を得られたのである。 『悲華経』に説かれる釈尊の五百の大願の教説。 宝海梵士 志 は釈尊の因位の名で、無浄念王は阿弥陀仏の因位の名。 すなわち十念に至までせん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。 このことから四十八願中で第十八願が根本の願であることが解る。 はやく。 すぐに。 法然聖人の『選択本願念仏集』を非難攻撃した明恵の非難の主題は菩提心撥去であった。 しかし、ここでは「菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり。 」とし、諸宗によって菩提心の違いがあり、浄土宗では浄土に生まれることを願うことが菩提心であるとされておられる。 この意を「しかるに菩提心について二種あり。 一つには竪、二つには横なり。 」、菩提心に横・竪ありとし、願作仏心として展開されたのが御開山であった。

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三部経(さんぶきょう)とは

三部経

浄土真宗で読まないお経 浄土真宗でよく歌のように読まれている「 帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)……」というのは、『 (しょうしんげ)』といいます。 お経とは、の説かれた教えを書き残したものをお経といいます。 『 正信偈』は親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは言いません。 ですから『 正信偈』を書き写すのは、写経とは言いません。 書写といいます。 また、浄土真宗以外の宗派でよく読まれたり写経される『 』も、浄土真宗では読みません。 一切経七千余巻には、もっと大事なお経があるのです。 では、浄土真宗では、どんなお経を読むのでしょうか? 浄土三部経(じょうどさんぶきょう) お釈迦さまの教えを書き残されたお経は、全部まとめて一切経といいます。 お釈迦さまが、35歳で仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまで45年間説かれた教えを書き残されたものですから、その数は七千余巻といわれるたくさんのお経です。 そのお経の中で、最も大事なお経が3つあります。 それは、すべての人を救うと誓われたが集中的に説かれている 『 大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』 『 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』 『 阿弥陀経(あみだきょう)』 の3つです。 『 』は『 無量寿経』とも『 大経』ともいいます。 『 』は『 無量寿仏観経』とも『 観経』ともいいます。 『 』は、『 小経』ともいいます。 これらの3つのお経を「 (じょうどさんぶきょう)」といいます。 この3つの重要なお経を「 浄土三部経」と名づけられたのは、親鸞聖人の先生の上人です。 法然上人の主著『 選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』にこのように教えられています。 正しく浄土を明かす教というは、いわく三経一論これなり。 「 三経」とは、 一には『 無量寿経』、 二には『 観無量寿経』、 三には『 阿弥陀経』なり。 「 一論」とは、の『 往生論』これなり。 あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。 (選択本願念仏集) 『 無量寿経』とは『 大無量寿経』のことです。 ちなみに「天親の『 往生論』」とは、の2番目の、天親菩薩の主著、『 浄土論』のことです。 『 大無量寿経』、『 観無量寿経』、『 阿弥陀経』の3つを『 浄土三部経』と名づけるといわれています。 浄土三部経を説かれたのは誰? 世の中には、この浄土三部経を、お釈迦さまの説かれたお経ではないと主張する人があります。 それについては、親鸞聖人はこう教えられています。 この三経はすなわち大聖の自説なり。 (教行信証) 「大聖」とはお釈迦さまのことです。 この浄土三部経は、お釈迦さまが自ら説かれたものだ、といわれています。 これに反する主張をしているような人は、浄土真宗の人ではありません。 親鸞聖人の教えのすべてが記された『 』は、このお釈迦さまの説かれた浄土三部経について詳しく教えられたものです。 『 教行信証』6巻のうち、はじめの5巻に『 大無量寿経』について、最後の化土巻に『 観無量寿経』と『 阿弥陀経』について教えられています。 このように、一切経でも最も重要なお経が浄土三部経ですから、一切経は浄土三部経におさまります。 この釈迦の説かれた浄土三部経が、浄土真宗のお経なのです。 ではなぜ一切経は浄土三部経におさまるのでしょうか? お釈迦さまが一切経を説かれた目的は? お釈迦さまの説かれた一切経に何が教えられているのかというと、 親鸞聖人は『 正信偈』にこのように教えられています。 如来世に興出したもう所以は 唯弥陀の本願海を説かんがためなり(正信偈) 「 如来世に興出したもう所以は」とは、お釈迦さまが地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。 お釈迦さまが一切経を説かれた目的は何であったのかというと、「 唯」ですから、2つも3つもない、ただ1つであったということです。 そのただ一つのこととは何かというと、「 弥陀の本願海」一つを説かれるためであったといわれています。 「 弥陀の本願海」とは海のように深くて広い、阿弥陀如来の本願のことです。 とは、大宇宙に数え切れないほどおられるたくさんの仏の先生の仏です。 このことを上人は、『 』にこのように教えられています。 阿弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり(御文章) 地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまただお一人ですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどありますから、仏のさとりを開かれた方も数え切れないほどあります。 その仏方を「 十方諸仏」といいます。 「 十方」とは大宇宙のことです。 その大宇宙の仏方の本師本仏が阿弥陀如来と言われています。 「 本師」も「 本仏」も先生のことですから、大宇宙の諸仏の先生の仏が、阿弥陀如来である、ということです。 お釈迦さまも大宇宙の諸仏の一仏ですから、阿弥陀仏はお釈迦さまの先生の仏です。 その阿弥陀如来の本願に何がお約束されているのかというと、 「 すべての人を必ず絶対の幸福に助ける」 とお約束されています。 すべての人を何としても絶対の幸福の世界へ出そうとされているのが本師本仏の阿弥陀如来です。 仏教では、弟子の使命は先生の御心を伝えることですから、お釈迦さまが一切経を説かれた目的は、先生である阿弥陀如来の本願一つを説かれるためであったのです。 大無量寿経の内容 では、お釈迦さまが仏教を説かれた目的である阿弥陀如来の本願はどこに説かれているのかというと『 大無量寿経』です。 ですから親鸞聖人はこのように教えられています。 それ真実の教を顕さば、すなわち『 大無量寿経』これなり。 (教行信証) 「 真実の教」とは、釈迦がこの世に生まれた目的のお経のことです。 これを「 出世本懐経(しゅっせほんがいきょう)」といいます。 「 経」には教えが説かれているので、「 教」も「 経」も同じです。 釈迦の出世本懐のお経が『 大無量寿経』だということは、 他の一切の経は、『 大無量寿経』を説くための方便の教えである、ということです。 「 方便」とは、どうでもいいものではありません。 私たちを真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものをいいます。 阿弥陀如来は、全部で48のお約束をされています。 これを阿弥陀仏の四十八願といいます。 その 四十八願の中でも、阿弥陀仏が本心を誓われているのが18番目にお約束された十八願です。 ですから阿弥陀如来の本願とは、阿弥陀如来の十八願のことです。 その十八願の世界へすべての人を出させるために阿弥陀如来が建てられたのが十九願と、二十願です。 ですから、阿弥陀仏の方便が、十九願と二十願です。 では十九願はどんなお約束かというと、 「 善いことしなさい、そうしたら助けます」というお約束です。 この十九願を解説されたのが一切経なのです。 ですから、『 大無量寿経』以外の一切経は方便の教えです。 では、『 大無量寿経』以外の一切経には何が説かれているのでしょうか? 一切経に説かれていることは? 一切経には何が説かれているのかというと、です。 すべての人は、幸せを求めて生きているのに、みんな苦しんでいます。 お金を手に入れたら幸せになれる、やりたいことをやったら幸せになれると思って、朝から晩まで色々なことをしていますが、苦しみ悩みがやってきます。 キリスト教を信じたり、イスラム教を信じたりして幸せになろうとしている人もありますが、 結局、苦しみばかりがやってきて、人生はあっという間に終わって行きます。 どんなに科学が進歩して便利になっても、幸せになれません。 それはなぜかというと、大宇宙の真理を知らないからです。 これを知らないから苦しみの一生で終わって行くのです。 この世苦しければ、未来もまた苦しみ続けねばなりません。 すべての人は、色々なものを信じて幸せになれずに苦しんでいるので、 まず大宇宙の真理である因果の道理を教えられたのです。 因果の道理とは、このような教えです。 善因善果 悪因悪果 自因自果 これは、善いことすれば幸せが、悪いことすれば不幸や災難が現れる。 自分のまいたタネは自分が刈り取らなければならない、ということです。 これなら誰でも分かります。 世の中には、色々な宗教や価値体系、考え方を持った人がいます。 しかし、どんな考え方をしたところで、変わらない幸せになれないことに変わりはありません。 そこでお釈迦さまは、色々な考え方を持つ人々を、 一人ももらさず絶対の幸福の世界へ導くために、 まず誰でも納得できる因果の道理を教えて統合されたのです。 この軌道へ乗せないことには、その先へ進むことはありせん。 因果の道理の教えによって、であることが知らされてくると、 「 廃悪修善(はいあくしゅぜん)」の心が起きてきます。 廃悪修善とは、悪いことをやめて、善いことしようという心です。 お釈迦さまの先生の阿弥陀仏が十九願に善いことしなさいとお約束されているので、 お釈迦さまは一生涯、廃悪修善を勧められたのです。 お釈迦さまは七千余巻の一切経にたくさんの善を説かれたのですが、 『 法華経』までの教えは一応『 法華経』におさまります。 その『 法華経』を説いておられる最中に、 お釈迦さまは『 法華経』を中断されて『 観無量寿経』を説かれています。 『 法華経』よりも、『 観無量寿経』のほうが重要ということです。 『 法華経』は自力の出世本懐経ではありますが、出世本懐の中の本懐ではありません。 『 法華経』までの教えは『 観無量寿経』を説かれるためであったということです。 ですから釈迦一代の教えは『 観無量寿経』におさまります。 このことを親鸞聖人は、このように教えられています。 臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 観経一部にあらわして 定散諸機をすすめけり(浄土和讃) 「 臨終現前の願」とは、阿弥陀仏の十九願のことです。 お釈迦さまは、阿弥陀仏の十九願の「 善いことをしなさい」という修善の勧めを 一切経七千余巻に一生涯教えて行かれました。 そのあらゆる善を「 観経一部にあらわして」とは、 『 観無量寿経』一巻にダイジェストされた、要約されたということです。 このように、一切経は『 観無量寿経』におさまるのです。 では『 観無量寿経』に何が説かれているのでしょうか。 観無量寿経の内容 『 観無量寿経』に説かれていることを、親鸞聖人は、 「 定散諸機をすすめけり」といわれています。 『 観無量寿経』には、お釈迦さまがそれまで説かれたあらゆる善を、定善(じょうぜん)と散善(さんぜん)の2つの善にまとめて説かれています。 この定善と散善を「 定散二善(じょうさんにぜん)」といいます。 それをやっている人を「 定散諸機(じょうさんしょき)」といいます。 このように一切経は、阿弥陀仏の十九願を解説された『 観無量寿経』におさまることを親鸞聖人は『 一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)』にも教えられています。 八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり。 これを「 要門」という。 これを「 仮門」と名けたり。 この要門・仮門というは、即ち『 無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。 (一念多念証文) 「 八万四千の法門」とは、一切経七千余巻に説かれた教えのことです。 一切経に説かれた教えは、すべて「 浄土の方便の善」だと教えられています。 「 浄土」とは阿弥陀仏のことです。 阿弥陀仏の方便の善とは、阿弥陀仏が十九願に誓われた善のことです。 一切経に説かれた教えは、すべて阿弥陀仏の十九願を開かれたものなのです。 それを親鸞聖人は、「 要門(ようもん)」とも「 仮門(けもん)」とも言われています。 「 要門」の門とは教えということです。 「 要」とは、重要とか肝要ということです。 ここを通らずに一歩進めませんので、要門といわれています。 「 仮門」とは方便の教えということで、真実に近づけ、体得させるに絶対必要な教えです。 その要門・仮門は『 観無量寿経』に説かれる定善、散善であると教えられています。 このように、釈迦の一切経の教えは、すべて阿弥陀仏の十九願の善であり、 それは『 観無量寿経』の定善、散善におさまるのです。 その阿弥陀仏の善の勧めを要門と教えられ、 ここを通らないと先へ進めませんから、 それが要約されている『 観無量寿経』の一切経における位置づけが いかに重要なものかわかります。 では、定善、散善とは何でしょうか。 仏教の教えの通りに進んで行くと知らされること 「 定善」とは、心をしずめて阿弥陀仏とその浄土を思い浮かべる善です。 教えの通りに実行しようとすると、一つにならない自分の心が知らされて来ます。 私たちは阿弥陀仏一仏を念ずることができると思っているので、 の時だけでも心を一つにしようとすると、心が飛び歩いているのが知らされます。 心をしずめようとする前でも、心が散り乱れているのは同じですが、 しずめようとしないからわからないだけです。 しずめようとしたから知らされるのです。 そこで、心が散り乱れたままでもいいから、善をやりなさい、 と教えられたのが「 散善」です。 親孝行ができると思っている人は、あまり親孝行をしていない人です。 親孝行をしようとしてはじめて、親不孝しかできないことが知らされます。 人間は一つの善もできない悪しかできない者だと聞いても、 「 そうですか」というだけです。 善をしてみて初めて、一つの善もできない私だったと知らされます。 こうしてお釈迦さまは『 観無量寿経』の最後にを勧められて、 『 阿弥陀経』に送ろうとされます。 お釈迦様は私たちの本当の姿を知らせて、 阿弥陀如来の本願に救われる所まで導こうとされているのです。 それが阿弥陀仏のお弟子であるお釈迦様のただ一つの使命だからです。 そして、善もできない、悪のやまらない私と知らされると、 念仏を称えずにおれなくなってきます。 信仰が進めば必ず念仏を称えずにおれなくなるのです。 では、『 阿弥陀経』には何が説かれているのでしょうか? 阿弥陀経の内容 『 阿弥陀経』には何が説かれているかというと、念仏です。 お釈迦さまの教えの通り、廃悪修善を心がけて進んで行くと、 善ができないことが知らされます。 けれども、念仏なら称えられるという心が出てきます。 そこでお釈迦さまはこう説かれています。 名号を執持すること、若しは一日・若しは二日、若しは三日・若しは四日・若しは五日・若しは六日・若しは七日、一心不乱ならん。 (阿弥陀経) これが『 阿弥陀経』の要です。 「 名号を執持」とは、念仏を称えることです。 念仏ほど尊いものはないから、もしは一日からもしは七日まで、一心不乱に称えなさいということです。 これは阿弥陀仏が二十願にお約束されていることです。 阿弥陀仏は二十願に、 「 念仏を称えなさい、そうしたら助けます」 とお約束されています。 その阿弥陀仏の二十願を、お釈迦さまは『 阿弥陀経』に解説されているのです。 若一日から若七日というのは、一週間で終わりではなく、死ぬまでのことです。 「 命のある限り、一心不乱に念仏を称えなさい、そうしたら臨終に迎えに往って、極楽へ連れて往ってもらえますよ」 と教えられています。 私たちは、善ができなくても、念仏くらいは称えられると思っていますので、 お釈迦さまは「じゃあやってごらん」と勧められているのです。 すると、念仏も称えきれない私だったと知らされます。 それを知らせる為に説かれたのが、『 阿弥陀経』なのです。 念仏も称えきれない、しか行き場のない我が身と知らされて、 一念で絶対の幸福に救われるのです。 もう1つ『 阿弥陀経』で大事なのは、大宇宙の仏方が阿弥陀仏の作られたをほめたたえられていると説かれています。 大宇宙の諸仏方が「間違いない、本当だ」と保証されているのです。 このように、お釈迦さまも、大宇宙の諸仏も、『 大無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の救いに導こうとされているのです。 浄土三部経のまとめ このことを親鸞聖人は、このように教えられています。 釈迦弥陀はの父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(高僧和讃) 「 無上の信心」とは絶対の幸福のことです。 絶対の幸福になれたのは、釈迦弥陀の善巧方便あったなればこそであった、 ということです。 「 釈迦弥陀」とは、阿弥陀仏とお釈迦さまです。 阿弥陀仏の方便とは、十九願と二十願です。 お釈迦さまの方便とは『 大無量寿経』までの一切経です。 私たちを絶対の幸福にするには、阿弥陀仏もお釈迦さまも、善巧方便が必要だったのです。 蓮如上人もこのように教えられています。 方便を悪しということは、あるまじきなり。 方便を以て真実を顕わす廃立の義よくよく知るべし。 弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる。 (御一代記聞書) たまに、自分は善ができないことは分かったから、念仏を称えようと、 善をせず、要門を通らずにその先へ進もうとする人がありますが、「 善巧方便によりて、真実の信を獲る」と教えられています。 私たちは自惚れ強いので、「 要門」を通ってはじめて知らされるのが、 悪のやまない自分です。 それを通ってはじめて、念仏に目がつくのです。 そして一心不乱に称えずにおれない気持ちが出てきます。 一切経七千余巻のお経は、私たちに真実わからせる為に説かれたものなのです。 方便は嘘でもなければ、あってもなくてもいいものでもありません。 真実へ近づけ、体得させるに絶対必要なものなのです。 最後に、浄土真宗のお経である「 浄土三部経」についてまとめると、 「 浄土三部経」を一言でいえば、 『 大無量寿経』は「 聞けば必ず助かる」ということです。 『 観無量壽経』は「 どんな人でも」ということです。 『 阿弥陀経』は、「 間違いない、本当だ」ということです。 このように、釈迦の説かれた一切経は、浄土三部経におさまります。 だから浄土真宗のお経は浄土三部経なのです。 そして一切経も、浄土三部経の『 観無量寿経』も『 阿弥陀経』も 『 大無量寿経』をわからせる為に説かれた方便のお経なのです。 ではどうすれば『 大無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の本願に救われて、絶対の幸福になれるのかという本質は、小冊子とメール講座にまとめておきましたので、今すぐ以下からご覧ください。

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