ハーリー レイス。 真夜中のハーリー&レイス (大人のプロレス入門)

ハーリー・レイスさん死去 猪木、馬場らと激闘

ハーリー レイス

プロレスファンの間でその名を知らぬ者はいない伝説のNWA世界ヘビー級チャンピオン、ハーリー・レイス。 あのリック・フレアーと並び、チャンピオンの中のチャンピオンと称される彼の生き様が語られる自伝が登場。 高校生の時にプロのリングに上がった少年時代に始まり、本格的なプロデビュー後、その名を轟かせながらリングで暴れまわった若き日の現役時代。 そして1973年にドリー・ファンク・ジュニアを倒し、NWAの王座を手に入れ、1984年までに通算8度の王座についた黄金時代まで、ザ・キングと呼ばれる彼のすべての活躍がこの一冊に収録。 さらには、全日本プロレスでのジャイアント馬場やジャンボ鶴田との激闘や、現役引退後のマネジャー業や自ら運営するインディー団体WLW ワールドリーグ・レスリング での活躍など、王の中の王、男の中の男であるハーリー・レイスの栄光の軌跡が垣間見える一冊。 レイス,ハーリー 1943年4月11日生まれ。 65年にラリー・ヘニングと組んでAWA世界タッグ王座を獲得。 その後、NWAへ進出し、73年5月にドリー・ファンク・ジュニアを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得。 この王座は短命で終わるが、75年12月にテリー・ファンクから同王座を奪ってからは長きにわたってNWAのエースとして君臨した。 じつに8度もNWA世界ヘビー級王座に就いた「ミスター・プロレス」である。 また、全日本プロレスの常連としてジャイアント馬場やジャンボ鶴田とも名勝負を繰り広げた。 現在は「つべこべ言わずにレスリングしろ」というスローガンを掲げたプロレス団体兼トレーニング・アカデミーのWLW ワールド・リーグ・レスリング を運営。 ミズーリ州エルドンに妻のB. とともに暮らしている トリッツ,ジェリー ミズーリ州の地方紙『ジェファーソンシティ・ニューズ・トリビューン』の編集者を務める。 ジェファーソンシティ在住 本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです 昔からの全日系プロレスファンで、ハーリーレイスは、NWA王者の象徴のような選手でした。 愛知での馬場対レイスのNWA戦(馬場二度目の戴冠)は、自分の中で屈指の名勝負として残っています。 決して、「強い!」わけでも「でかい!」わけでもないのに、王者としてのオーラは存分に漂っていました。 レイスが長期政権を築き、防衛記録、返り咲き記録更新していったことを子供心に不思議に思う部分もありましたが、その理由がこの本を読んではっきりわかりました。 最後の章には、彼のプロレス哲学が凝集されて述べられると同時に、ある有名レスラーから受けた意外なエピソードがつづられています。 オールドファンにとっては、この部分を読むだけでも、「プロレスファンでよかった!」と思えるでしょう。 ハーリー・レイス。 この名前を知っているプロレスファンは今どのくらいいるのだろう。 日本では昭和50年代に全日本プロレスのリングで活躍していたレスラーだ。 派手な技があるわけでもない。 いかにもアメリカンプロレスらしい派手なやられっぷり。 当時中学生だった私は、最初彼の凄さが理解できず、どうして彼がNWA(当時最も権威のあった団体のベルト)王者になれたのか不思議であった。 そうなると、リングアナウンサーが彼をコールしたときに見せるゆっくりと両手を上げるポーズも王者の風格である。 最も好きな外人レスラーであった。 この本を書店で偶然見つけたときには驚いた。 何故発売されたか分からないが、即購入である。 いかにもプロレスラーの自伝であり波乱万丈の人生だ。 彼のスタイルの原点も知ることができたし、現在の奮闘振りも知ることができた。 共著の人物も彼の長年のファンなので客観的な事実ばかりではないかもしれないが、これはプロレスラーの自伝である、これで良い。 現在、彼が主催するプロレス団体のモットーは「つべこべ言わずにレスリングをしろ」だそうだ。 まさに彼のプロレス人生そのものである。 うーん、思い入れが先走って作品のレビューになっていない…。 ただ言えるのは、これが彼のファンあるいは古きよき時代のプロレスファンにはたまらない作品だということである。 いやー読めてよかった。

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表の顔はキング、裏ではボス。ハーリー・レイスを偲んで。~プロレスビジネスの超大物~

ハーリー レイス

この音源はcoverのようですが、レイスの日本での名場面付きですのでご勘弁を。 月刊ゴング誌で「ニューヨークMSGでレイスvsバックランドがダブル世界戦」といった記事を読むだけで、映像は観ることができなくても妄想が膨らみまくりでした。 結果は当然、引き分けに決まっているのではありますが。 そのレイスの初来日は1968(昭和43)年2月、日本プロレスです。 このシリーズはNWA新チャンピオン、ドリー ファンクJr. の初来日シリーズでもありました。 1972(昭和48)年3月には坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦しています。 下した相手はドリー ファンクJr.でした。 そしてレイスは同年から主戦場を全日本プロレスに移し、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、アブドーラ ザ ブッチャー、ミル マスカラスとの防衛戦を繰り広げます。 7月にヒューストンでジャック ブリスコに敗れ、そのブリスコ(第48代王者)は1974(昭和49)年、鹿児島でジャイアント馬場に破れ王座を失います(ジャイアント馬場のNWA初戴冠、第49代)が、7日後に豊橋で奪還して帰国。 以降、NWA王座は 1975. 12 テリー ファンク(51代) 1977. 2 ハーリー レイス(2度目、52代) 1979. 8 ダスティ ローデス(53代) 1979. 8 ハーリー レイス(3度目、54代) 1979. 10 ジャイアント馬場(2度目、55代) 1979. 11 ハーリー レイス(4度目、56代) 1980. 9 ジャイアント馬場(3度目、57代) 1980. 9 ハーリー レイス(5度目、58代) 1981. 4 トミー リッチ(59代) 1981. 5 ハーリー レイス(6度目、60代) 1981. 6 ダスティ ローデス(2度目、61代) と変遷。 1982(昭和52)年にレイスはジャンボ鶴田を下しUNヘビー級王座を、そしてジャイアント馬場からPWFヘビー級王座も奪取します。 そして1983(昭和53)年11月、リックフレアーがレイスを下しNWA初戴冠(第64代)。 このスタイルは後継のフレアーにも踏襲され、「80年代のNWA王者のスタイル」を確立しました。 その両者が田園コロシアムで激突したこの試合は、私の大好きな試合です。 当時、新日本プロレスが大ブームを巻き起こし、私もアントニ猪木、藤波vs長州、初代タイガーマスクに夢中でしたが、この試合だけは当時高価だったVHSビデオテープから消せずに、いまだに所有しています。 ご冥福をお祈りします。

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ハーリー・レイス 死去がヤバい!動画は?死因は?馬場とNWA戦

ハーリー レイス

新人時代 子供の頃からプロレスラーを志し、ポーランドの伝説的レスラーだったスタニスラウス・ズビスコと彼の弟ウラディック・ズビスコのコーチを受けて、サーカスなどに出場するカーニバル・レスラーとして15歳でデビュー。 腕自慢の素人など、観客から挑戦者を募って勝負するカーニバル・レスリングにおいてシュートの実戦経験を積んだ後、ミズーリ州セントジョセフのプロモーターだったグスト・カラスの仲介で1960年より通常のプロレス界に進出。 1960年代前半はジャック・ロング(Jack Long) と名乗り、ジョニー・ロングとのロング・ブラザーズとしてテネシーのNWAミッドアメリカ地区などで活動した。 Wikipedia 15歳でデビューしていたのですね。 しかもプロレスラーではなくカーニバルレスラー。 これは腕自慢の素人相手に真剣勝負するレスラーなのですが、彼がプロレスラーとして長年活躍出来たのもカーニバルレスラーとして身につけた喧嘩が強いという芯があったお陰です。 肉体的にもタフで、あるレスラーが証言していたのですが、試合でハーリー・レイスが血だるまになり、そのダメージを心配していたら、試合後の酒場で額に絆創膏を貼った姿でお酒を呑んでいたとの事でした。 いかにもオールドレスラーならではの破天荒さが見て取れます。 最近のレスラーは色んな意味で洗練されていて、肉体もボディビルダー顔負けの肉体美のレスラーが多いです。 ハーリー・レイスの肉体を見ると筋肉隆々とい感じではなく、頑丈なゴツい肉体という感じです。 昭和に活躍したレスラー達はこういった傾向が強いと思います。 全盛期 日本では1973年2月より全日本プロレスを主戦場とし、NWA世界王者となってからも全日本の看板外国人レスラーとして、特別参加の扱いで再三来日。 馬場をはじめ、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラス、ディック・マードックらを挑戦者に日本でも防衛戦を行った。 世界王座から陥落していた1982年には、8月1日に後楽園ホールにて鶴田からUNヘビー級王座を、10月26日に帯広市総合体育館にて馬場からPWFヘビー級王座をそれぞれ奪取している。 年末の世界最強タッグ決定リーグ戦には4回出場しており、1984年にはAWA世界ヘビー級王座に幾度となく就いたニック・ボックウィンクルとの元世界王者コンビを実現させた。 1983年6月10日にはリック・フレアーを破ってNWA世界ヘビー級王座への通算7度目の戴冠を果たし、同年11月24日にフレアーの本拠地ノースカロライナ州グリーンズボロにて奪還されるまで保持した(翌1984年3月21日、ニュージーランドにて再びフレアーを下したが、レフェリーのカウントが早かったとして翌22日にはフレアーが王者に認定されている)。 また、共同プロモーターを務めていたハート・オブ・アメリカ・スポーツ・アトラクションズのNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座には、1968年から1984年にかけて、サニー・マイヤース、ボブ・ガイゲル、モンゴリアン・ストンパー、ボブ・ブラウン、デューイ・ロバートソン、ハクソー・ヒギンズらを破り通算9回、セントルイス・レスリング・クラブのNWAミズーリ・ヘビー級王座には、1972年から1985年にかけて、パク・ソン、ジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニア、ディック・ザ・ブルーザー、デビッド・フォン・エリック、ジェリー・ブラックウェルらを破り通算7回戴冠している。 1986年5月、全日本プロレスへの昭和期最後の参戦を経てWWFに移籍。 これはNWA世界王座への戴冠歴に触れずにレイスの格にふさわしい扱いをするためのギミックであると同時に、同じくキングを名乗ったジェリー・ローラーへのWWFからのあてつけでもあった(当時のローラーは、反WWFの急先鋒の1人だった)。 同年7月14日に開催されたキング・オブ・ザ・リングでは、1回戦でジョージ・スティール、準決勝でビリー・ジャック・ヘインズ、決勝でペドロ・モラレスを下し、優勝を飾って「キング」の称号を名実ともに獲得、8月30日にはヒール陣営の列席のもとリング上で戴冠式が行われた。 翌1987年はジャンクヤード・ドッグとの「キング対ドッグ」の抗争を経て、ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に再三挑戦。 以降もランディ・サベージやジム・ドゥガンなどを抗争相手に、1989年初頭まで在籍した。 WWFではボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、当時ヒールターンしていたアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘した。 Wikipedia 現在世界で最大の規模を誇るプロレス団体はWWEという団体ですが、かつてはNWA、AWAという威厳のある団体が存在していました。 その両団体で世界チャンピオンに何度も君臨しました。 1980年代はハーリー・レイスが30代を迎え、正に油の乗り切った全盛期と言っていい年代でした。 ここに日本でのファイト映像があります。 ジャイアント馬場の身長が209cmに対し、ハーリー・レイスの身長が185cm。 その身長差は24cmあります。 しかしハーリー・レイスが凄いのが大型選手に対しても普段通りのファイトをしています。 ヘッドバッドを叩き込み、ブレンバスターも軽々と決めます。 ブレンバスターは通常一回り大きい相手に決めるのは困難です。 しかもジャイアント馬場という規格外の体格を誇るレスラーを投げるのは至難の業。 ブレンバスターは特に難しい投げ技だと思いますが、ジャイアント馬場のような投げにくい選手を普通に投げきる技術とパワーは凄いです。 普通はこれだけ体格差があると、身体の小さい方の選手は相手に対し持て余し気味になって、フットワークや小さい身体を活かした試合構成になりますが、ハーリー・レイスは自分のファイトスタイルを崩さずに大型選手に対しても技を決めきる事は本当に凄いことだと思います。 子供の頃見ていたハーリー・レイスは、スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディと比較すると地味に見えていたのでその凄さが分からなかったのですが、今映像を見てみると凄い選手だったのだなと分かりますね。 プロレスラーはテクニシャンタイプとパワーファイター、悪役等の喧嘩ファイターなど幾つかに分類できますが、このハーリー・レイスは全て兼ね備えた名レスラーですね。 引退~晩年 WWF退団後の1989年4月、全日本プロレスに3年ぶりに参戦。 これが現役としては最後の来日となり、以降は事実上引退し、WCWでベイダーやレックス・ルガーなどのマネージャーを担当した。 交通事故により1995年に正式に引退した後は、ホームタウンのミズーリ州エルドンにてレスリング・アカデミーおよびインディー団体のWLWを主宰し、後進の育成に尽力している。 日本の団体ではプロレスリング・ノアがWLWと友好関係を築いており、2010年11月からは、前任者ジョー樋口の死去に伴い、ノアのフラッグシップ・タイトルであるGHCの管理委員長に就任。 以後、多くのノア所属日本人レスラーがレイスのもとを訪れ、彼が育てている若手選手を指導している。 2005年に小橋建太が訪れた際には、レイスが所持するNWA世界ヘビー級ベルトを小橋に与え(後に返還)、「私はもうミスター・プロレスではない。 これからは彼こそがミスター・プロレスだ」との言葉を投げかけた。 レイス曰く「私は長らくプロレスを見てきたが、2004年7月10日に行われた東京ドーム大会の小橋vs秋山がベストバウトだ」。 また、ノアの選手ではレイス夫妻共々、丸藤正道がお気に入りであり、「日本の息子」と呼んでいる。 2004年には、プロレス界での功績を称えてWWE殿堂に迎えられた。 2013年12月7日、プロレスリング・ノアの有明コロシアム大会に立ち会うため、2004年7月10日以来の9年ぶりの来日を果たす。 翌2014年1月4日には新日本プロレスの東京ドーム大会「レッスルキングダム」においてNWA世界ヘビー級選手権試合の特別立会人を務めた。 その際、レイスを挑発したNWA社長のブルース・サープをパンチで殴り倒している。 2019年3月には肺癌を告白。 同年8月1日、死去。 76歳没。 Wikipedia レスラー引退後は後進の指導やチャンピオンシップの立会人など務められたようです。 喧嘩が強く、プロレスラーの技術と受け身素晴らしかった名レスラーがまた一人旅立っていくのは寂しい事ですが、安らかに休んで欲しいです。

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