北条 義 時。 北条義時とは 〜北条得宗家を作った「鎌倉殿の13人」の覇者

北条泰時

北条 義 時

今回紹介する見逃し動画はNHK「歴史秘話ヒストリア・ここがスゴイ!承久の乱」2019年9月11日本放送です。 しかし、「武士の世」である幕府の 礎を築いたのは、北条政子の弟で、 源実朝の甥にあたり 後鳥羽上皇により朝敵として 逆賊扱いされた鎌倉幕府二代執権・北条義時で 鎌倉幕府と京のの朝廷の軍が武力衝突した「承久の乱」がキッカケといわれています。 今回の「歴史秘話ヒストリア」は、 「承久の乱」を、鎌倉方の武士・北条義時と、 日本史上屈指の才能を持つといわれた帝王・後鳥羽上皇を軸に紐解きました。 「歴史秘話ヒストリア」は、U-NEXTの 見逃し動画配信で31日視聴用のポイントを使って間実質無料で、ご覧になれますよ。 北条義時 画像出典:Wikipedia 静岡県伊豆の国市 北條寺(ほうじょうじ) 鎌倉幕府二代執権北条義時の創建 義時は北条時政の子 境内には、北条義時夫妻の墓があります。 墓には青年期の「江間小四郎(小次郎)」の名が刻まれています。 その理由は、北条義時の父親の北条時政には、 二人の娘が居て、 後妻・牧の方は、自分の生んだ娘を 源平の戦いで平氏を滅亡させた 源実朝の妻に嫁がせるつもりでした。 しかし源実朝が選んだのは、 先妻の娘であり北条義時の姉の方でした。 しかし、東国を中心に鎌倉幕府を開いた征夷大将軍・源頼朝は義時を高く評価しており、一番の側近として義時は、源頼朝に使えました。 1199年(建久10)1月13日 征夷大将軍の任命からわずか7年、 源頼朝が馬から落ち怪我をしたのが災いし急死しました。 これを期に 北条時政が野望を見せ始め 有力武士を排除 そして1204年、息子の義時に 源頼朝の息子で第二代将軍の源頼家を討たせました。 6年後北条時政は次のターゲットとして選んだのが 時政の前妻の娘婿で幕府の重臣・畠山重忠でした。 畠山重忠は清廉潔白で 武士達の厚い信頼を集めていた人物です。 時政は、畠山重忠が謀反を起こした との口実で討つ事にしましたが 義時は、畠山重忠は謀反を起こす様な人物ではないと強硬に反対しました。 結局、義時は、時政に従い畠山重忠を討ちました。 この一連の言動が 鎌倉の御家人に伝わり 後に 「地頭改封(国替え)は応じかねる」 との回答を送りました。 更に後鳥羽上皇を苛立たせたのが、京都で起こった幕府御家人による謀反騒ぎでした。 この謀反により御所の一部(大内裏)や宝物も焼けてしまいました。 「吾妻鏡」によると、 1221年(承久3)5月15日 朝廷は軍勢を送り京に居た代官(鎌倉幕府京都守護)、伊賀光季(いが みつすえ)を討たせました。 更に追い打ちで 1221年(承久3)5月19日 後鳥羽上皇は朝廷への反逆者(朝敵)として義時追討の勅令を下しました。 鎌倉の御家人に義時追討を命じ、官宣旨(公文書)により全国の武士にも義時追討を命じました。 これにより義時は、 逆賊の烙印を押され 日本中の武士から命を狙われる様になりました。 episode3 武士に世 ここに始まる いち早く義時追討の密書を受け取ったのが、鎌倉の御家人・三浦義村でした。 三浦家と北条家はライバル関係にありました。 当然、義時を討てば幕府の頂点に君臨出来るという野望も湧きました。 しかし、三浦義村は以外な行動い出ました。 使者を義時の元に送り、京から朝廷の密使・押松が義時の追討の勅書を広める為、鎌倉に入ったとの知らせを送りました。 その報を聞き、京から入った上皇の使いである押松を捕えました。 これにより鎌倉に義時追討の命が下った事を広まる事を阻止しました。 鎌倉の有力御家人達を招集。 北条政子の下、一致団結し、朝廷との戦いに挑みました。 その頃、朝廷の密使・押松が送り返されていました。 後鳥羽上皇は、義時の追討の勅令が鎌倉に広まって義時が討たれたと確信していましたが、逆に朝廷を狙い軍を向けたと報告を受け焦りました。 そして、急いで西国の武士を招集しました。 しかし、後白河上皇は、武士の気持ちがわからないのが問題で、武士を集めるのは困難を極めました。 朝廷の命令であっても、それは勝っても武士に利益があるのか分からないのが問題でした。 武士の気持ちを察し、勝者に恩恵として領土を与えると確約した義時とは天地の差が有りました。 遂に1221年(承久3)6月5日 幕府軍、朝廷軍は美濃(現・岐阜あたり)で激突しました。 2日続いた戦いは幕府軍優勢のまま美濃での戦いは幕を閉じ、幕府軍は京に駒を進めました。 1221年(承久3)6月14日 京の南、宇治で最後の決戦が行われました。 朝廷軍の反撃は激しく、一時は総大将北条泰時は退却を覚悟しましたが、幕府軍が押し切り、戦いは幕府軍の勝利に終わりました。 日本のあり方を劇的に変えました。 天皇や上皇の地位にに幕府の意向が強く反映される様になりました。 後鳥羽上皇の広大な所領(土地)は幕府の管理下に置かれ 朝廷は安定した経済基盤を失いました。 幕府と争った貴族や武士の3000箇所の西国の領地も幕府のものになりました。 その結果、幕府軍には恩賞として、没収した所領が約束の通り与えられました。 西国の所領が幕府軍に与えられた結果、東の武士が移り住む事により、幕府の武士の考え方や秩序が西国にまで及ぶようになりました。 これにより幕府が全国政権になったと言えます。 まさに真の武士の世が承久の乱の後に始まったのです。 そして、1224年(貞応3)北条義時は、あたかも自分の役割が終わったかのようにこの世を去りました。 その後武士の世は640年もの間続きました。 江戸時代になると、北条義時の評価は、朱子学の思想により天皇に歯向かったとして悪人扱いされ地に落ちていました。 しかし武士の世を終わらせた立役者でもある勝海舟の評価は違っていました。 勝海舟の談話集「氷川清話」では・・・ 北条義時は、国家の為には不忠の名を甘んじて受けた。 即ち自分の実を犠牲にして、国家の為に盡くした(尽くした)のだ。 おれも幕府瓦解の時には せめて義時に嗤われ(笑われ)ないやうに(様に)と 幾度も心を引き締めたことがあったッケ。 と綴れられています。 ポイントで実質無料視聴可能! U-NEXTの作品は、見放題の動画と ポイントを利用しての動画の二通りが有ります。 「歴史秘話ヒストリア」は 見放題では無くポイント制の動画で 216円(216ポイント)での視聴ですが 初回に与えられる600円分のポイント を利用し、 実質視聴無料で観る事が出来ます。 詳しく説明すると U-NEXTは月額1990円 税抜 なのですが、 31 日間トライアル登録をすると、 ビデオ見放題サービス 1,990 円分を 31日間試すことができ、更に、 600円分のポイントがもらえます!! この初回視聴用にプレゼントされる 600円分のポイントを利用して 「歴史秘話ヒストリア」 の見逃し配信動画を 実質無料で観ることが出来るのです。 ポイント制の動画とは? サムネイルに「P」のマーク が表示されている動画が ポイント制の動画です。

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北条義時とは?生涯・政策を簡単にわかりやすく紹介!【義時の後世の評価はなぜ悪いのか】

北条 義 時

北条義時が生まれた時、伊豆には流罪となっていた は17歳に成長していました。 (ひるがこじま)にて生活していた源頼朝は、安達盛長・河越重頼・伊東祐清・佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱・佐々木高綱らが従っていました。 北条時政は、当初、流刑の身である源頼朝を監視する平家側でしたが、長女の北条政子が源頼朝と恋仲になってしまいます。 北条時政が大番役で京へ上っていた間の出来事とされ、最初こそ、反対した北条時政でしたが、結局は認めて、北条義時が15歳の頃 1177年頃 に、源頼朝 31歳? と北条政子 21歳? は結婚しています。 そんな折に、1179年、罪によって伊豆に流された山木兼隆が、伊豆の最高権力者と言える平時兼 諸説あり と親しかったことから、山木兼隆が伊豆目代に任命されて勢力を強めてきました。 この山本氏に危機感を抱いたのは、北条氏など伊豆の豪族たちです。 によって幽閉された後白河天皇ですが、その第三皇子である以仁王 もちひとおう が、1180年に、平家打倒のため挙兵します。 以仁王は、木曾義仲など各地の源氏に令旨を発し、源頼朝も受け取りました。 当初は静観していた源頼朝ですが、以仁王は らと宇治の戦いで敗死し、逆に平氏から討伐を受ける可能性も出たことから、源頼朝は挙兵を決意して、関東の豪族らに協力を呼びかけました。 こうして、 、 、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉、堀親家らが源頼朝に協力しますが、北条時政も嫡男・北条宗時、そして北条義時と共に、山木兼隆より伊豆の実権を回復するべく賛同します。 そして、1180年、韮山にある山本兼隆の屋敷を襲撃し、討ち取りました。 その後、源頼朝らは、味方を約束した三浦義明・ らと合流するため、相模・土肥郷 湯河原 に向かい、北条氏の一族も従いました。 ところが、源頼朝の挙兵を鎮圧するべく、伊豆に向かってきた平家勢の 、伊東祐親らと、 となってしまいます。 この合戦で、敗れ、兄・北条宗時は、伊東祐親の軍勢に包囲されて、小平井久重に射られて討死しました。 源頼朝らは真鶴から安房に脱出し、北条時政と北条義時も、別行動にて安房へ向かって合流しました。 北条時政と北条義時は、劣勢を挽回すべく、甲斐の源氏である ・一条忠頼に接触して支援を得て、源頼朝は上総広常と千葉常胤らの加勢により武蔵に入ると、更に足立遠元、葛西清重、 、河越重頼、江戸重長など、坂東武者が加わり大軍勢となって 入りを果たしました。 平家は、平維盛を大将にして討伐軍を派遣しましたが、富士川の戦いにて源氏が大勝利を収め、源頼朝は鎌倉での政治を本格化させ、 を侍所の別当に任命しました。 1183年、 は、加地信実の娘とされる阿波局との間に、長男・北条泰時を設けています。 も加わった源氏は、先に京に入った も討ち、1184年には で勝利を収めます。 そして、源範頼を大将に、北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、結城朝光、比企能員、和田義盛、天野遠景、三浦義澄らは源義経と合流し、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いで勝利して、1185年、平家を滅亡させました。 その間、 のちの の別当に が就任しており、着々と も体制が整備されています。 1189年、父・北条時政の後妻である牧の方が、北条政範を産みますが、生母を失っていた北条義時の立場は、一時、悪くなっていた可能性があります。 北条義時は、 の への討伐にも参加し、やがて、源頼朝の若手側近となり、寝所警護衆(家子)を務めました。 1192年7月12日、即位した後鳥羽天皇によって源頼朝が征夷大将軍となり「鎌倉殿」と呼ばれました。 その年の9月25日、比企朝宗の娘である姫の前が、北条義時の正室となり、1193年に次男・北条朝時、1198年には3男・北条重時が産まれています。 源頼朝の乳母は比企尼であり、その一族が姫の前と言う事になります。 この姫の前 ひめのまい は、源頼朝の大倉御所に勤める女官 女房 だったそうで、吾妻鏡でも大変美しく、並ぶ者のない権勢の女房であったと明記されています。 また、源頼朝が2人のあいだを取り持ち「絶対に離縁しない」という起請文を書かせたともされています。 1198年12月27日、源頼朝は完成した の橋からの帰路にて、体調を崩して落馬したともされ、1199年1月13日に死去しました。 享年53。 第2代将軍 第2代鎌倉殿 には、北条政子の子である源頼家が就任しますが、まだ18歳でした。 急な政権交代でもあったことから、情勢が不安視され、有力御家人による「十三人の合議制」が敷かれます。 のメンバーは下記のとおりです。 大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、 、足立遠元、安達盛長、 、比企能員、北条時政、三浦義澄、和田義盛、そして北条義時となります。 妹である阿波局 北条時政の娘 は、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と言ったことを聞いて、将軍・源頼家に重用されたていた梶原景時に伝えます。 梶原景時は、結城朝光を咎めようとしますが、その一方で、阿波局は結城朝光に対して「梶原景時があなたを殺害しようとしている」と、話を盛って両者をそそのかします。 そして、今や権力も強い梶原景時が結城朝光を殺害しようとしていると聞いた御家人らは怒り、 、和田義盛ら66名によって、梶原景時排斥を求める連判状を将軍・源頼家に提出しました。 梶原景時は、一切弁明せず一族と相模・一ノ宮の館 梶原景時館 にておとなしくしましたが、幕府での居場所を失ったと感じ、1200年1月に梶原景時は一族らと相模を立ち、西国を目指しました。 しかし、駿河にて吉川友兼に補足されて、一族33人が討死し、梶原景時も自刃しています。 梶原景時の変) もしかしたら、幕府にて権力を得たい父・北条時政の策略かも知れません。 こうして、将軍・源頼家と、北条家は対立するようになり、1203年5月、源頼家は阿波局の夫・阿野全成を謀反人の咎で殺害します。 さらに阿波局を捕縛しようとしましたが、母・北条政子が拒否しました。 その後、1203年7月、源頼家が病に倒れると、北条時政は、源頼家の乳母の父・比企能員を自邸に呼び出し、仁田忠常らを使って謀殺します。 また、比企氏の館も襲撃して比企氏を滅ぼし、姫の前と離別しています。 (比企能員の変) 更には、源頼家から鎌倉殿の地位を剥奪し、伊豆・修善寺へ追放しました。 そして、北条政子らは朝廷に、源頼家は死去したという虚偽の報告を行い、源頼家の弟で、阿波局が乳母を務めた 12歳 を元服させて、鎌倉幕府3代将軍 第3代鎌倉殿 に擁立しています。 翌年、北条時政は手勢を送り、源頼家は入浴中に殺害されました。 享年23 このようにして、大江広元と並んで北条時政は政所別当に就任し、幕府の実権を握りました。 北条義時は相模守になっていますが、北条義時も有力御家人排除には協力していたようです。 なお、継室・伊賀の方が、1205年に5男・北条政村をもうけています。 畠山重忠の子・畠山重保が、北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争うと、牧の方は北条時政に畠山重忠を討つよう求めます。 そのため、1205年6月、北条時政は、北条義時・北条時房と共に思案し、北条時政の娘婿である稲毛重成が、まだ若い将軍・源実朝に謀反を訴え、畠山重忠の討伐が決定しました。 鎌倉に滞在していた畠山重保は謀略にて殺害され、虚偽の呼び出しを受けて、菅谷館から鎌倉に向かっていた畠山重忠は、二俣川の戦いにて、愛甲季隆に討ち取られました。 畠山重忠の乱 ただし、畠山重忠殺害に関して、北条義時は反対していたともされます。 更に、牧の方は、夫・北条時政と共謀して、将軍・源実朝を殺害して、娘婿・平賀朝雅を新たな鎌倉殿に擁立し、政権を独占しようと計画しました。 これを知った北条政子と北条義時らは、あまりにも強硬な策だと、反感を抱きます。 北条政子・北条義時らは、結城朝光、三浦義村、長沼宗政らを派遣して、北条時政の屋敷にいた源実朝を保護して、北条義時の屋敷に迎え入れます。 鎌倉御家人も北条時政のやり方を快く思わなかったため、多くが北条義時に味方し、北条時政は失脚して、牧の方と共に出家しました。 その翌日には、鎌倉から追放され伊豆・北条の旧領にて幽閉されています。 平賀朝雅は 守護でしたが、滞在していた京にて、幕府の命を受けた山内首藤通基が殺害しました。 (牧氏事件) 牧の方と、先妻の子である北条義時・北条政子との確執があったのも間違いないでしょう。 1212年5月、姫の前が産んだ次男・北条朝時が、将軍・源実朝の怒りをかったため、駿河に蟄居させ、将軍家や北条政子に配慮しています。 北条時政は、そのまま伊豆にて1215年に死去しました。 牧の方は、その後、平賀朝雅の正室だった娘が、再嫁した権中納言・藤原国通を頼って上洛し、京都にて余生を過ごしています。 鎌倉幕府での最有力者となった北条義時は、政所別当・大江広元、安達景盛らと連携し、幕政の実権を握りました。 やがて、北条義時は「 」 しっけん と呼ばれるようになり、独裁的政治を開始して執権政治を進めていきます。 ただし、第1代執権は、父・北条時政とされる場合が多いです。 北条氏による有力武士の排除は続き、守護職の世襲を改める方針を打ち出すと、侍所別当・和田義盛と意見が合わなくなりました。 1213年、和田義盛を挑発して、鎌倉での にて滅亡させ、三浦氏・ ・渋谷氏なども没落しています。 この時、駿河で謹慎していた次男・北条朝時は和田合戦に加わっており、勇猛な朝比奈義秀と果敢に戦い、復帰を許されました。 そして、北条義時は侍所別当も兼ねて、事実上、執権は鎌倉幕府の最高職となり、1216年には従四位下・右京大夫となって、父の官位も超えるました。 1219年1月27日、鎌倉の にて、源実朝の右大臣任官の祝賀 拝賀 が行われました。 この帰りの境内で、2代将軍・源頼家の子である公暁 くぎょう によって、将軍・源実朝が暗殺されます。 この時、北条義時と間違えられた源仲章も殺害されました。 予定では、北条義時が拝賀式で、源実朝の太刀持ちをするはずでしたが、吾妻鏡によると、体調不良で源仲章に後退してもらっていたと言います。 北条義時は、自邸で休んでいたため、難を逃れましたが、暗殺事件後の対応などから、裏で操っていたのではともされ、真相は不明です。 いずれにせよ、源実朝は子がいなかったため、源氏の正統は途絶えました。 ちなみに、北条氏は桓武平氏を称していますので、このように源氏一族を滅ぼして、平氏の世の中に逆戻りしたとも言えます。 執権・北条義時は、後鳥羽上皇の雅成親王(六条宮)を将軍として迎える工作を行うも拒絶され、源頼朝に縁がある摂関家・藤原頼経を鎌倉幕府第4代将軍として迎え入れますが、当時、藤原頼経はまだ1歳の乳幼児でした。 そのため、北条政子が「尼将軍」として、源頼経の後見を務め、鎌倉殿の地位を代行しています。 その北条政子を、北条義時が補佐して実権を握る執権政治が確立しました。 源頼朝の死後、鎌倉幕府に対して強硬な姿勢だった後鳥羽上皇ですが、1219年、内裏守護・源頼茂が、西面武士に襲撃されて討死する事件が起こります。 享年41。 なんでも、源頼茂が将軍職に就くことを企てたしたと言う理由のようですが、恐らくは、後鳥羽上皇の倒幕計画を察知されたためと推測されます。 こうして、後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立は深まり、執権・北条義時は1220年2月に、義兄の伊賀光季と娘婿・大江親広を京都守護として上洛させて警戒しました。 これに対して、1221年5月14日、後鳥羽上皇は平安京にて「流鏑馬揃え」を行うとして諸国の兵を集めました。 北面武士・西面武士、近国の武士、大番役の在京の武士、尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・三浦胤義など1700余騎が集まります。 京都守護の大江親広も加わりましたが、同じ京都守護の伊賀光季は拒んだため、伊賀光季の屋敷が襲撃されて討死しました。 そして、後鳥羽上皇は三浦義村・小山朝政・武田信光・小笠原長清などの有力御家人に対して、北条義時追討の院宣を発します。 承久の乱 この朝廷挙兵の変事が鎌倉に伝わると、御家人らは「朝敵」になったことに動揺します。 そのため、尼将軍・北条政子が声明を出して団結させ、北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らは軍議を開きました。 大江広元の策にて、幕府軍は京へ出撃することを北条政子が承認し、北条義時は嫡男・北条泰時を総大将にして軍勢を向けました。 次男・北条朝時と弟・北条時房は越後から北陸を経由して京へ向かい、東山道 中山道 からは武田信光が進んでいます。 武田信光は、北条政子の演説に心動かされ、鎌倉が勝つのであれば鎌倉につくとして味方しました。 進軍する幕府軍は、各地で加勢を受けて、最終的には19万騎にもなったとされます。 藤原秀康を総大将とした幕府軍は1万7500余騎で美濃に兵を進めましたが、武田信光・小笠原長清ら東山道の5万騎に敗れて、京は大混乱となりました。 後鳥羽上皇は に登りましたが、比叡山の僧兵が味方しなかったため、京に残る全兵力をもって宇治・ に布陣します。 しかし、朝廷勢は敗走し、幕府軍は京へなだれ込むと、寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ちました。 後鳥羽上皇は、今回の反乱は、謀臣である藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らの企てであったとして、倒幕の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を新たに発します。 見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは、東寺にて籠城しましたが、三浦義村の軍勢に攻められて三浦胤義は自刃しました。 山田重忠は逃亡先の嵯峨・般若寺 はんにゃじ 山にて自害し、藤原秀康は河内にて捕縛されました。 鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の膨大な荘園を没収して隠岐島へ配流し、順徳上皇は 島へ渡りました。 そして、鎌倉幕府に近く後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣となり、幕府の意向にて朝廷を主導します。 倒幕計画に参加した一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は、鎌倉に送られる途中、美濃・岩村や、足柄の早川などで処刑されました。 北条泰時・北条時房は京の平清盛邸の跡地である六波羅に滞在して戦後処理に当たり、京都守護に代り新たに六波羅探題となりました。 更に、仲恭天皇は廃されて、行助法親王の子が後堀河天皇となると、朝廷は幕府に完全に従属し、鎌倉と京都の二元政治が終わり、武家政権を確立しました。 また、西国で朝廷に加担した御家人らの所領をたくさん没収したため、戦功があった御家人に給付でき、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固なものとなりました。 こうして、多くの御家人が西国に移り住むことになり、幕府の支配も全国に及ぶようにもなっています。 しかし、承久の乱 承久の変 の翌年、1223年になると、北条義時は陸奥守と右京権大夫を返上して無官となりました。 そして、1224年6月13日、北条義時は死去。 享年62。 北条義時の墓は、伊豆・北条寺の境内で、霊屋は鎌倉の北条義時法華堂跡と推定されています。 北条義時の死は急だったことから、後妻・伊賀の方が毒殺したとの噂も流れたようです。 また、伊賀の方は、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図ったことから、北条政子によって伊豆北条へ流罪となっています。 伊賀氏の変 北条義時は、積極的に勢力拡大を望んだとは言い難く、自分の身や親族を守ろうとした結果、敵対する者と戦い続けるしかなかったと感じます。 そして数々のトラブルも乗り越えた結果、自然に、最高権力者になってしまったと言う印象を受けます。 北条義時の死後は、六波羅探題の北条泰時が、北条政子の指名によって急きょ鎌倉に戻り、鎌倉幕府第3代執権を務め「御成敗式目」を制定しました。

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【北条義時の墓】アクセス・営業時間・料金情報

北条 義 時

の第2代。 の在地・の次男。 の・の弟。 家2代目当主。 が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。 幕府と朝廷の対立が激化すると、より北条義時追討のが全国に発布されとなるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧した()。 生涯 [ ] 青年期 [ ] の次男として生まれ、江間小四郎と称した。 母は「の娘」。 義時が15、6歳の頃に姉のが伊豆の流人であったの妻となっている。 4年()8月17日、義時は父・時政、兄・と共に頼朝の挙兵に従うが、でに敗北して宗時が戦死する。 頼朝、らはからへ逃れ、28日、()から出航してに脱出した。 時政・義時も別ルートで前日に安房に脱出し、現地で頼朝と合流した。 態勢の立て直しが模索される中、9月8日、時政はを味方に引き入れる密命を受けて義時と共に甲斐に赴き、15日、・のいる逸見山に到着して「頼朝の仰せの趣」を伝えたという。 10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し、甲斐源氏との連携を成功させた時政は頼朝から報償を与えられた。 12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列した。 元年()4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『』養和元年4月7日条)。 この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「」と呼ばれて(血縁者)と一般の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)。 元年()11月、頼朝は愛妾・をの宅に置いて寵愛していたが、この事を継母のから知らされた政子は激怒し、牧の方の父・に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。 怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。 これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。 義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。 兄・宗時が戦死したためになったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条姓ではなく所領とした江間の姓で記される事が多く、分家の江間家の初代であったと見られる。 5年()に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟のは16歳でに叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある。 2年()、率いる追討軍に属してへ赴き、で武功を立てた。 5年()7月、に従軍。 元年()に頼朝が上洛した際、拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。 義時は21歳の時に長男・をもうけていたがであり、建久3年()9月25日、頼朝の仲介によりの娘で誉れ高い幕府女房であったを正室に迎える。 そして翌年に嫡男・を儲ける。 頼朝存命中はそれほど表立つ事はなかったが、頼朝死後に内の権力闘争が激化すると頭角を現してくる。 政権簒奪闘争 [ ] 元年()の頼朝の死後、跡を継いだ2代将軍・の独裁を押さえるためのに加わった。 が失脚したで義時の同母姉妹のが関わった。 3年()、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅であるを自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼした。 次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国へ追放する()。 時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳のを3代将軍に擁立し、10月9日にはと並んで政所別当に就任して実権を握った。 『』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺された。 元年()3月6日、義時は相模守に任じられた。 7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。 『愚管抄』や『』によれば、頼家は義時の送った手勢により暗殺された。 この時期の北条氏による有力御家人排除は、時政・義時が一体となって行われたが、2年()の、続くで父子は対立するようになる。 『吾妻鏡』では時政が後妻のの讒言により人望の厚かったを謀殺して御家人たちの反感を買い、義時は謀反など起こすはずがないと畠山討伐に反対したというが、これは父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であると見られている(参照)。 ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。 の最有力在庁であった畠山排除と同時に発生した牧氏事件の背景には、元年()に乱の引き金となった北条本家の後継者・の急死があり、政範亡き後、娘婿・を将軍に立てようとする時政・牧の方と、先妻の子である義時・政子らの確執があったと考えられる。 元久2年()7月、姉・政子と協力し、有力御家人・(母方の従兄弟)の協力を得て時政を伊豆国に追放した義時は、父に代わって政所別当の地位に就いた。 武蔵国は有力者の畠山重忠・の排除によって、義時が信頼する弟のが同国の・となる。 朝雅誅殺後、儀式における序列は長年にわたり源氏門葉として御家人首座にあった()を凌ぎ、義時が第一位を占めるようになる。 義時は常に政子と実朝を表面に立てながら、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握った。 時政の性急な権力独占が多くの反発を招いた事から、義時は柔軟な姿勢を示し、時政一人の署名による下知状という文書形式は一時姿を消し、御家人達の要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示した。 一方で北条執権体制の障害となる有力御家人に対する抑圧策を進めていく。 時政失脚直後の8月、下野国の(時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護のに追討を命じ、頼綱は無実であるとして出家遁世した。 3年()11月、年来郎従(伊豆国住民で北条氏の家臣、の原型)の中で有功之者を侍に准じることを要望したが、実朝の反対により断念した。 同月には諸国守護人の職務怠慢をついて終身在職を改め、定期交替制にしようとしたが、・・など御家人達の激しい反発を招いて断念している。 この頃から義時の地位はと呼ばれるようになり、次第に独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていく。 その後も有力武士への攻撃は続き、幕府創設以来の重鎮で別当の地位にあったを元年()2月、において滅ぼした。 義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と合わせて幕府の最も枢要な職を独占し、北条氏の幕府指導者としての地位が定まった。 乱の3年後の建保4年()にはに叙し、翌年5月に、12月にを兼ねて父の官位を超えた。 私生活では比企の乱直後に姫の前と離別し、を継室に迎えて元久2年()に五男・をもうけている。 政村は建保元年()12月、三浦義村をとして元服し、その際に義時の「鍾愛の若君」と呼ばれている。 2年()5月、姫の前所生の次男・が将軍・実朝の怒りをかったためし、へ蟄居させている。 実朝暗殺 [ ] 元年()正月27日、での拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。 その日の拝賀式で、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったが、『吾妻鏡』によれば当日急に体調不良を訴えてと交代して自邸に戻り、結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びている。 この事や暗殺事件後の収拾策などから、実朝の暗殺は義時が裏で操ったという説 や、将軍親裁を強める実朝に対する義時・ら鎌倉御家人の共謀という説 もあるが、北条氏に対抗する三浦義村 、または幕府転覆を望むが黒幕という説 もあり、またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解 もあって、真相は明らかではない。 『』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しておらず、自邸に戻ったとはされていない。 義時は実際には殺害現場にいたものの、目の前で発生した将軍殺害を防げなかった義時の失態を隠蔽するために『吾妻鏡』が曲筆したとする説も出されている。 事件の前年から、子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇のを将軍として東下させる事が検討されており、政子が上洛してと話が進められていた。 源氏の正統が絶えた事による幕府内での動揺は大きく、義時は頼朝の異母弟の子で将軍の座を望んで挙兵したを討ち、また公暁に荷担したとの嫌疑で公暁の異母弟を誅殺している。 実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇はこれを拒否し、東下問題と絡ませて上皇の寵姫の所領の廃止を要求してくる。 幕府方はこれを拒否して、義時の弟・を一千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、両者の態度は強硬で交渉は不調に終わる。 幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、頼朝の遠い縁戚であるのを4代将軍として迎え入れた。 もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはなかった(実際の将軍補任は7年後)。 このため、政子が尼将軍として頼経の後見と空白となっていた鎌倉殿の地位を代行し、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。 実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、後鳥羽と鎌倉幕府の対立が先鋭化する。 義時は承久2年()2月に義兄のをとして派遣し、娘婿・も京都守護として上洛させた。 承久の乱 [ ] 詳細は「」を参照 一方、後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し、承久3年()5月14日、ぞろいと称して諸国の兵を招集すると、院政内の親鎌倉派を粛清して伊賀光季を殺害し、倒幕の兵を挙げた。 15日、義時追討のが全国に発布され、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命が出された。 京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態であり、義時は生涯最大の難局に直面する事になる。 幕府ではとなる事に動揺する御家人たちに対し、尼将軍政子が頼朝以来の恩顧を訴える声明を出し団結させた。 幕府首脳による軍議では慎重論も出る中、大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という助言により、京への出撃が決定した。 義時は嫡男・をとしてからへ向けて軍勢を送り、次男・朝時、弟・時房をとして・の三道から京へ上らせた。 幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ攻め上った。 道中、の武士が北陸道の大将軍朝時の到着を待たず積極的に進軍し、・の境、付近を突破して前進すると、義時はただちにその功を賞して「一人も残らず殲滅せよ。 山狩りをしても召し捕れ。 敵を掃蕩せずに功を急いで京を攻め上ろうとするな」と、意気盛んかつ慎重な司令を発している。 5月21日に鎌倉を発した幕府軍は、の京都防衛線を突破して、6月15日には京都を制圧した。 義時追討の宣旨発布からわずか一ヶ月後の幕府軍の完勝であった。 敗北した後鳥羽上皇は倒幕計画は自分の考えではなく近臣が勝手に起こしたものであると弁明したが、幕府は乱の首謀者たる後鳥羽上皇以下に対して極めて厳しい態度を取り、後鳥羽上皇は、はに配流された。 倒幕計画に反対していたは自ら望んでへ配流された(後にへ移される)。 後鳥羽上皇の皇子の、もそれぞれ、へ配流となった。 在位70日余りのは廃されて新たにが立てられ、親幕府派の公家・らを中心として朝廷の再編成が行われた。 上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官となった。 後鳥羽上皇の莫大なは没収され、にされたが最終的支配権は幕府が握っていた。 公家政権の監視にあたる出先機関としてが新たに京都に設置された。 京方の貴族・武士たちの所領30,000ヵ所はすべて幕府に没収され、新たに東国武士たちが恩賞として地頭に任命された。 この勝利により、京方についた旧将軍独裁時代の勢力は一掃され、執権義時の幕府内での最高権力者たる地位が確定したのみならず、義時の主導する鎌倉政権が公家政権に対して支配的地位を持って朝幕関係を完全に逆転させる事に成功したのである。 こうして新たに展開された執権政治は、全国的政権としての新たな段階に進む事になる。 である『』によれば、勝利の報を受け取った義時は「 今ハ義時思フ事ナシ。 義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。 義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル(今は自分に思い残す事はない。 この義時の前世からの果報は王の果報に勝っていたのだ。 この世に報われる善行が一つ足りなかったために、卑しい身分に生まれたに違いない)」と公然と述べたという。 一方、幕府編纂書の『吾妻鏡』にこの記述はなく、幕府軍が鎌倉を発った直後の6月8日、義時の邸に雷が落ち、下働きの男が一人死亡した。 これを恐れた義時は大江広元に「朝廷を倒すための上洛でこのような怪異が起きた。 幕府の運命もこれまでという前兆だろうか」と尋ね、広元は「君臣の運命は天地が定めるものであり、何も恐れる事はない。 かつて勝利を収めたでは落雷があった。 幕府にとって落雷は吉兆である」と返答して狼狽する義時を宥めた。 そして陰陽師を呼び占わせたところ、結果は最吉と出た、という話が描かれている。 この話は、義時が神の末裔である皇族に弓矢を引くことに恐怖を感じていたこと、天皇を絶対的な権威とする当時の『常識』を、義時もまた持っていた証であると指摘されている。 最期 [ ] 乱の翌年に陸奥守と右京権大夫を辞職し、無官となっている。 乱から3年後、元年()6月13日、義時は62歳で急死した。 『吾妻鏡』によれば衝心のためとされるが、偉大な幕府指導者の急死であったため憶測を呼び、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞(『』)があった 他、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(『』)もある。 なお、義時の別称は と呼ばれ、以後の北条氏のの呼び名となった。 得宗の語源は義時の法名にちなむとも言われるが、はっきりしない。 『吾妻鏡』に「の東の山をもって墳墓となす」とあり、近年北条義時法華堂跡の発掘調査が行われた。 なおこの時代に義時クラスの者がに葬られた記録はない。 義時の墓は建長寺派の北條寺境内にあり、泰時が建てたものと伝えられている。 北条義時夫妻の墓の説明板 説明板によれば妻は後妻佐伯氏の娘とある 系譜 [ ]• 母:の娘• 男子:…家• 妻:…の娘• 男子:…祖• 男子:…祖• 女子:…および妻• 妻:朝政の娘• 男子:…祖• 妻:…の娘• 男子:…祖• 男子:…祖• 男子:…陸奥七郎• 女子:および妻• 生母不明• 女子:妻• 女子:妻• 女子:妻• 女子:妻 流派 [ ] 太字は嫡流である家。 細字は支流(流祖ではない男子は省略)。 はその嫡流意識の強さから、度々家と対立し、数度の討伐を受けた。 は最古の武家文庫と知られるを設立した。 のは極楽寺殿御消息、の作者として知られる。 経歴 [ ] 和暦 西暦 月日 () 内容 元年 3月6日 に叙し、に任官。 元久元年 1204年 閏7月19日 鎌倉幕府第二代執権就任。 元年 1月5日 従五位上に昇叙し、相模守如元。 3年 2月27日 に昇叙し、相模守如元。 4年 1月13日 に昇叙し、相模守如元。 建保5年 1月18日 に転任。 建保5年 1217年 12月13日 を兼任。 元年 8月16日 陸奥守辞任。 貞応元年 1222年 10月16日 右京権大夫辞任。 人物 [ ] 義時は、における幕府軍の総大将であり戦後に天皇を廃し3人のを配流しているため、の天皇制国家においては皇室絶対の視点から同情の余地の無い逆臣で不遜の人として多くの筆誅が加えられた。 またそれ以前のでも主君に対する忠誠を武士道とするため、源氏将軍を滅ぼし(必ずしも義時が滅ぼした訳ではないが)あるいは傀儡にして将軍から実権を奪い取ったため、不忠の臣・陰険な策謀家として描かれた。 もともと北条氏の歴代当主は彼の嫡男・泰時や曾孫のを除いて大半が陰険・悪辣・暴君・愚君とされているがその代表としては常に義時が挙げられる。 これは源氏将軍暗殺に限らず実父の時政まで追放して執権になるなどの不義によって強調される事となった。 しかも彼が直接関わったのかどうかも疑問視されているものが多いのだが、最終的に彼が利益を得ている事から彼の関与が考えられている事件も少なくない。 は、「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった、その中で自分の身と親族を守る為に戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」「頼朝の挙兵がなければ、一介の東国武士として一生を終えたであろう」と評している。 には、ある人物が見た夢の中で、義時がの転生した姿であることを知った、という伝説が書かれている。 また、がを戒める為に奏上した『』にも、義時が武内宿禰の転生した人物であるという内容の記述がある。 これらの情報から、鎌倉時代末期には義時が武内宿禰の転生した人物という伝説がある程度知られていた、また、古今著聞集の成立年代も考慮すると、義時が没してほどない頃から義時が武内宿禰の転生した人物という話は語り草になっていたのではないかと推測されている。 偏諱を与えた人物 [ ]• 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 『吾妻鏡』によるとを味方につけた頼朝は、9月20日にを第二の使者として甲斐に送り、24日に宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河国で参会すべきか評議を重ねている。 一方『延慶本平家物語』では、• 時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた• 頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った という記述があり、『吾妻鏡』の記述と齟齬が見られる。 時政・義時は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。 他の10名は、・・和田義茂・・宇佐美実政・・・・・八田知重。 主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。 文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を三浦義連・結城朝光、御後を梶原景季・八田知重が警護している。 細川重男は義時の次男・朝時が時政の屋敷であった邸を継承していることから、時政は朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している。 ただし朝時の名越邸継承の時期は不明であり、時政の真意は定かでない。 他の6名は、、、、、、。 『』には「元久三六任相模守」とあり元久3年(1206年)6月とも読めるが、『』『』『北条九代記』『将軍執権次第』はいずれも元久元年(1204年)3月6日であり、「元年」の語句が欠落していると思われる。 『吾妻鏡』は義時がこの時に政所別当・執権に就任したとしているが、は承元3年(1209年)12月以前の政所文書に政所別当(執権)である義時の署判が1通も見られないことを指摘して、元久2年(1205年)の執権就任記事を『吾妻鏡』編者の脚色として実際の就任は承元3年(1209年)としている。 更には執権はとともに北条泰時によって創設された職で、時政・義時の執権記事は『吾妻鏡』が過去に遡らせた記述であって執権就任そのものが事実ではないとする説を提示している• 家を顕彰する立場で編纂された『吾妻鏡』においては、義時はあくまで御剣役であり、戌神を信仰していて事件の前年に薬師堂を建立し薬師像を安置供養した加護によって義時が守られたとしている。 『吾妻鏡』では・・について、将軍廃立や殺害の前に不吉の前兆を示すエピソードが記されている。 義時黒幕説の代表的なものとして(『鎌倉時代 下(京都)』春秋社、1957年)、(『北条義時』吉川弘文館、1961年)など。 鎌倉御家人共謀説は、が提唱したもので、実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣の排除に乗り出したと主張している。 義村黒幕説は、が小説『』で描いて以来注目され、がその可能性を認めた ことで浮上した。 他に、などが支持している。 後鳥羽黒幕説は、が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願するが実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している。 公暁単独犯行説を取っているのは、 、 、 、 など。 承久の乱の京方首謀者の一人で逃亡していたが、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで武士たちを驚かせた事を、が書きとどめている。 尊長は義時死後に起こったで将軍候補とされたの実兄であった。 出典 [ ] []• 『佐野本北条系図』• 『飛州志』所収のによる。 『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ、2011年• 岡田「執権制の成立と建保合戦」• 「源実朝-将軍独裁の崩壊」『歴史公論』、1979年• 『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、1965年• 『日本の歴史9 鎌倉幕府』小学館、1974年• 「承久の乱」安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年• 「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題 -承久年中「修法群」の意味-」『立命館文学』588号、2005年• 『日本の歴史9 頼朝の天下草創』講談社、2001年• 『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年• 『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年• 『三浦一族の中世』吉川弘文館、2015年• 平泉隆房「『吾妻鏡』源実朝暗殺記事について」『皇学館論叢』133号、1990年• , pp. 97-98. 鎌倉市. 2020年1月9日閲覧。 『北条義時』吉川弘文館。 序章1頁 - 2頁。 『北条義時』吉川弘文館。 序章3頁。 『北条義時』吉川弘文館。 245頁 - 246頁。 , p. , pp. 83-85. 『安達泰盛と鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(、2006年)P. 参考文献 [ ]• 『北条義時』〈人物叢書〉 、1994年新装版(1961年発刊)。 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 、1974年(1965年発刊)。 改装版、2004年。 『中世日本の諸相 下巻』所収「執権制の成立と建保合戦」 吉川弘文館、1989年。 のち、『鎌倉幕府と東国』 、2006年再録。 ・ 『世界人物逸話大事典』 1996年。 『吾妻鏡の謎』 、2009年。 、2011、『北条氏と鎌倉幕府』、〈講談社選書メチエ〉 関連作品 [ ]• - 北条義時がとして登場するの本。 「覇樹」『』(、)• 『』の原作のうちの一作。 キャストは - 『草燃える』では終始一貫、夫や家族をただ熱情的に愛していく姉の政子に対し、田舎の純真純朴な青年であった義時が、姉の婚姻によって政争に巻き込まれ、老練冷徹な政治家となるまでが描かれた。 『実朝の首』(、) 関連項目 [ ]• - 北条得宗家邸跡に建立された天台宗の寺院• - 北条家伝来の刀。 北条家滅亡後は、家、、が所有。 外部リンク [ ]• - (2014年8月1日アーカイブ分)鎌倉市役所 2005年06月24日 2020年1月10日閲覧.

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