日本は韓国人だらけ。 日本人が理解していない韓国人の「恨」の意識

反日映画はウソだらけ! 日本、韓国「軍艦島徴用工」捏造に国連で反撃 元島民らがゆがんだ歴史認識に徹底反論へ (1/3ページ)

日本は韓国人だらけ

「ママ、何であの人たち、顔が焦げているの?」 7歳の息子が指をさした先には、音楽をかけて談笑している黒人男性たちがいた。 私は思わず「しーっ」と自分の口に指をあてた。 実際のところ、息子は日本語で質問してきたので、彼らに聞こえていたとしても、意味は伝わらなかっただろう。 けれど、私は息子の素朴な問いに虚を突かれ、その小さな手を引いて速足で彼らの前を通り過ぎた。 ちょうど10年前の2010年夏、私は12年勤めた会社を辞め、小1の息子を連れて中国・大連の大学院に博士留学した。 住まいは留学生寮の2人部屋。 ビジネスホテルのツイン程度の広さで、トイレとシャワーはあったものの、お湯を溜めるタンクの容量は小さく、5分以内でシャワーを済ませないと冷水をかぶることになる。 キッチンと洗濯機は共用。 中国人向けの寮に比べると設備は充実していたが、それまでの日本での生活との落差は大きかった。 生活水準が著しく下がったと感じた息子は、「うち、お金ないの?」と何度も聞いてきた。 シングルマザーの私は、中国政府奨学金の審査にパスし、学費・住居費無料、生活費支給という待遇を得られたので、思い切った決断ができた。 とはいえ支給される生活費は日本円にして数万円程度で、貯金を切り崩しながら切り詰めた生活を送ることとなった。 けれど私たちは、安定した収入と引き換えに、お金では買えないたくさんのことを学んだ。 大学には個室中心の寮と、2人部屋が前提の寮があった。 自費留学生の大半が個室の寮を選んだため、私たち親子が住んでいた2人部屋ベースの寮の住民は、ほとんどが国費留学生だった。 出身国の構成はベトナムやロシア、ラオスなど社会主義国が4割、アフリカが4割、韓国が1割で、私を含めたその他が1割だった。 当時、中国政府は留学生大幅増員プロジェクトを推進中で、留学先でも同じ年に入学した国費留学生が学部生から大学院生まで100人前後いた。 世界地図を手に留学生の部屋を回る息子 ベトナムやタイの留学生はお母さん代わりのような存在だった。 私たちの留学生寮には100人弱が暮らしていたが、長期で住んでいる日本人は他にいなかった。 当時前歯が4本抜けて、笑うと周囲まで笑わされてしまう息子は、寮のアイドルになった。 クリスマスが近づくと、息子はサンタクロースに見つけてもらうために、日本語と中国語で「ここに子どもが住んでいます」と紙に書いて窓に貼った。 外から紙を見た留学生仲間たちは、こっそりドアの外にプレゼントを置いてくれた。 夕食を食べると、息子はおもちゃやゲームを手に、留学生の部屋を訪ねた。 どこの国の人であろうが、遊んでくれれば友達だった。 初対面で「顔が焦げている」ように見えた黒人とも、いつの間にか仲良くなっていた。 冬はベトナム人グループが雪合戦に誘ってくれ、共用キッチンではアフリカの人々がダンスを教えてくれた。 そのうち息子は、世界地図を手に彼らの部屋を訪ねるようになった。 地図を見て国の名前を答えることができても、それ以上のことをほとんど知らないと気付いたのは、他でもない親の私だった。 どの国の人たちも日本を知っていた。 そういえば、中国人の竹笛の先生にも「一休さん」の話題を振られたことがある。 アニメの伝播力はとんでもなく大きい。 私もスウェーデン人には「イケア、イケア」と言い、向かいの部屋のトルコ人には「イスタンブール」「シルクロード」と、その国から連想できる単語を並べ立てた。 しかし、アフリカに関しては、南アフリカの「アパルトヘイト」、ケニアの「留学生駅伝ランナー」など本当にごく一部の国のイメージしかなかった。 他に浮かぶのは「大草原と象」という感じのぼんやりした印象だ。 「ギニア」と「赤道ギニア」は全然違う 部屋には小さなシャワールームがついていたが、湯船に浸かりたい息子は、ある日思わぬ策をとった。 寮で最初に話しかけてきたのは、留学4年目の古株である赤道ギニアからの留学生だった。 ギニアではなく、赤道ギニアだ。 外務省のサイトによると、日本在住の赤道ギニア人は2018年時点で8人しかいないらしい。 アフリカのことを何も知らない私は「ギニアとは違うの?」と聞いた。 「全く違うよ」と彼は答えた。 「コンゴ」も「コンゴ共和国」と「コンゴ民主共和国(旧ザイール)」があって紛らわしかった。 シエラレオネ人が突然やってきた時は、私はその国のイメージを何も示せず、相づちを打ちながら笑顔でごまかすしかなかった(アフリカ人にとっても日本人は珍しいので、突然部屋をノックしてくる人が少なくなかった)。 彼が立ち去った後、とりあえずウィキペディアで検索すると「平均寿命が世界で3番目に短い」という文面が目に入った。 同国に根深い問題があるのを感じながらも、「こんな情報、世間話には使えない」と画面を閉じた。 息子を特にかわいがってくれたのは、向かいのトルコ人の部屋によく出入りしていたガボン人男性、テレンスだ。 彼が「母は4人いて兄弟が20人弱いる」と言うので、私はまた自室のPCを開いて「ガボン 一夫多妻」と調べたりもした。 私はアフリカ=途上国、貧困国のイメージを持っていたが、当然ながら実際は国や個人によって環境が違う。 テレンスは2011年時点でiPhoneを持っており、息子は彼のジーパンのポケットからiPhoneを抜き取っては、パスワードを解除してゲームで遊んでいた。 コンゴ共和国の女性は時々4時間ほど共用キッチンを占領し、大量の料理を作っていた。 彼女をキッチンで見かけると、私はその日の炊事を諦め、息子と外食に出かけた。 21時すぎにキッチンをのぞくと、同国の人々が集まって食事会が開かれていた。 彼女は「12人きょうだいで育ったから、いつも作りすぎてしまう」と笑っていた。 コンゴ共和国の人々が一般的に大家族なのか、彼女の家庭が特別きょうだいが多いのかは聞きそびれた。 最初に会った人が、その国のイメージにもなる。 アフリカや東欧の人々が私を見て「日本人は痩せているんだねえ」とよく言うので、私は「いや、私は日本人の中でも痩せている方です」とその度に答えていた。 韓国人が「日本より格下」と言われてもスルー 経済的な条件、私が学業や仕事で忙しいこともあり、息子(左から2人目)はローカル学校に通学していた。 さまざまな国の人が暮らす留学生寮では、小さな事件が毎日のように起きた。 共用部をきれいに使わない人はとても多く、管理人によってキッチンに「シンクはゴミ箱ではない」「床は灰皿ではない」と張り紙をされることもあった。 だから一時帰国のたびに、百均ショップでストックを複数買い込んだ。 所有・共用の感覚も全く違い、ある留学生が帰国間際、「これ、ずっと借りてたけど返す」と、数年前に紛失したフライパンを持ってきたことがあった。 貸してと言われた覚えはない。 皆が自国や他国をどうポジショニングしているか見える場面も多々あった。 私が所属していた研究室には中国人の他に韓国人、ベトナム人、ナイジェリア人がいた。 指導教授は研究発表会などの自己紹介で、「我が研究室には日本人もいる」とよく言っていた。 教授の専門は「経営学」だったので、その分野で「日本」は欧米企業とはまた違う、学ぶべき対象だったのだと思う。 国費留学生にはナイジェリア人が多く、自費で多く来ていたロシア人、韓国人と並んで一定の勢力を形成していた。 ナイジェリア人留学生の発言からは大国意識をしばしば感じたし、どこか中国を下に見ている印象も受けた。 研究室の教授と留学生で会食をしたときは、ナイジェリア人の発言にひやひやした。 母国の公用語が英語である彼は、「英語ができれば中国語を学ぶ必要はない」との姿勢を崩さず、果ては英語が苦手な50代の教授に「今からでも遅くない。 レッスンに付き合うから勉強しよう」と提案までした。 「儒教文化の影響を受けた」共通点を持つ私、韓国人、ベトナム人は必死に話題を替えた。 ナイジェリア留学生はさらに、「韓国の国力は日本に遠く及ばない。 ただし、日本は強国とはいえ、インドの下にある」と評論した。 理由を聞くと、「インドは仏教の発祥地」との答えだった。 私と韓国人、ベトナム人は寮への帰り道、「いろいろ衝撃だったね……」と語り合った。 けれど、「韓国は日本に遠く及ばない」と言われても韓国人は「アフリカ人だしね」と怒っていなかった。 「日本はインドの下」と言われた私も、同じ反応だった。 日中、日韓関係がこじれると、あの食事会を思い出す。 家族、親戚、ご近所……近いからこそこじれやすく、冷静になれないのだ。 遠ければ、距離を置くことで薄められるのだから。 巨大なぬいぐるみはロシア人からもらった。 新型コロナウイルスが世界を襲った2020年、世界保健機関(WHO)の事務局長で、エチオピア出身のテドロス・アダノム事務局長が「中国寄り」だと批判されている。 私は正直、「何をいまさら」と思う。 社会問題とポテンシャルに覆われた大陸であるアフリカで、中国は着々と足場を築き上げてきた。 アメリカから敵視されているファーウェイも、海外進出をアフリカから始めた。 日本のようには品質や競争力を国際的に認められず、先進国を攻めるのが難しかった中国なりの戦略でもあっただろう。 アフリカや東南アジアから中国に来ていた国費留学生は、多くがその国のエリートだった。 帰国後は母国で大学教員のポストが約束されている人もいたし、現役の外交官もいた。 日本人である私は、何人ものアフリカ人留学生から「本当は日本に行きたかったけど、ハードルが高すぎるから現実策として中国に来た」と聞いた。 中国の経済力が急速に台頭する中で、日本も含め各国から中国への語学留学生は増えている。 ただし「研究」「物づくり」などの分野では、私が留学していた10年前は、当の中国人ですら「日本や欧米の方が上」と考えていた(今もまだ、その考えは強く残っているだろう)。 私が留学していた大学は中国ではそこそこ名が知られていたが、グローバルでは無名に近く、しかも国費留学生を受け入れて数年しか経っていなかった。 先進国の留学生を引き付けるほどのブランドがないからこそ、国費留学生の多くを社会主義国やアフリカの出身者が占めていたとも言える。 私にしろ、何がなんでも中国で学びたかったわけではない。 奨学金や子どもと住める住居の提供が大きな決め手になったし、研究室も「先進国留学生枠」みたいな立ち位置で、私を置いてくれていたように感じた。 好きなのは日本、近いのは中国 35歳で留学し、他の留学生より一回り年上の私は、息子を通じて環境になじめた面もある。 だが、どういう動機で中国留学を選択したにせよ、数年間の生活で中国への理解は深まる。 前述したように、特に途上国から来る国費留学生の多くはその国のエリートであり、留学を終えると中国に関連した仕事に従事する。 私だってその一人だ。 中国生活は当初の予定から数年延びて6年に及んだ。 途中からは仕事もしていた。 その中で子育ても含めて留学生仲間だけでなく中国の人々に助けられ、関係は今でも続いている。 その国や政治体制が好きかどうかでではなく、そこで暮らす人々と関わった実体験(いい面も悪い面も含めて)を通じ、国や国民への想像力の幅も広がる。 2015年、中国のスターバックスでネットを見ていたら、隣の席の中国人男性に「日本人か」と話しかけられた。 ザンビアで銅山関係の会社を経営し、一昨日帰国したばかりという彼は私に連絡先の交換を求め、数日後「日本の部品メーカーを紹介してほしい」と電話してきた。 別のアフリカの友人(国は忘れてしまった)からは「私の国で制作される映画では、日本人の役を中国人が演じている」とも聞いた。 日本から見るとアフリカはとても遠い国で、旅行にしろビジネスにしろ「アフリカまで行く」という感じだが、中国ではもっと身近だ。 アフリカの人々がそれを歓迎しているかはともかく、そして私の知りうる限りアフリカの人々の多くは、日本に強い好感を抱いているにもかかわらず、関係がより濃密なのは中国だ。 日本の大学は最近になって、グローバル化を急ぎ、留学生を増やしているが、本気で国際化を図っているのは一部の大学にとどまるだろう。 多くは「経営の維持」のために留学生を増やしているように見える。 違うだろうか。 震災後、ラオス人学生が歌っていた日本の歌 いろいろな人たちからかわいがってもらった。 アフリカからの留学生だらけの寮生活で、30代後半の私が交流を深められたのは、ひとえに息子のおかげだ。 黒人の男性3、4人が共用キッチンで音楽を大音量でかけながら踊っていたとき、私はそこに近づくのを躊躇したが、息子は彼らとハイタッチして一緒に体を揺らした。 私たちの部屋には日本から持ち込んだ任天堂のゲーム端末があり、息子は留学生仲間を招き入れ一緒に遊んでいた。 料理を作って部屋に戻ったら、大柄な黒人たちと息子がゲームで遊んでいて、1人は私のベッドで寝ていた、ということもあった。 息子がいなければ彼らは、正直「ちょっと近寄りがたい怖い人」のままだったかもしれない。 2011年3月11日、東日本大震災が起きた日。 中国のテレビでも、津波の映像が繰り返し流された。 息子は何が起こっているか分かっていなかったが、映像から伝わる恐怖感で泣いた。 中国の友人の社内イベントに、「親戚の子ども」として参加させてもらったこともあった。 大学の講義を受けていた私に、こんな写真が送られてきた。 その日の夜遅く、赤道ギニア人のミーシー、トルコ人のセレナ、韓国人の金夫妻が部屋を訪ねてきて、「家族は大丈夫か」と心配してくれた。 「うちからは遠い場所だから家族は大丈夫……」と返事をするのが精いっぱいだった。 次の日も、その次の日も、寮内ですれ違う人々から「大丈夫か」と聞かれた。 私の心は全く大丈夫ではなかった。 そんなある日、部屋にいるとなぜか日本語の歌が聞こえてきた。 声をたどって行くと、ラオス人留学生が徳永英明のヒット曲「最後の言い訳」のサビの部分だけを繰り返し歌っていた。 「大事なものが遠くに行く、全てが思い出になる」というような歌詞の意味を分かって歌っているかはうかがい知れなかった。 私は彼の歌声を震災に重ね合わせて涙を流し、同時に「カルチャーの広がり方って不思議だなあ」とも感じた。 彼は1週間以上、毎晩「最後の言い訳」を歌っていた。 10年後に明かしたサンタの正体 息子は今、東京で高校生活を送っている。 新型コロナウイルスが世界に拡散し、学校も休校になり、親子の会話の時間が増えた。 ステイホーム期間には息子とたくさんの話をし、その昔、クリスマスにおもちゃやお菓子をくれたサンタクロースの正体が、隣室の韓国人や上の階のガボン人だったことを明かすこともできた。 中国の学生寮でのプライバシーもお金もない生活が、今の息子には「多様な愛と豊かさに包まれた生活」という記憶として刻まれている。 それを確認でき、ひそかに安堵している。 (文・写真、浦上早苗:経済ジャーナリスト).

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日本の入国制限に韓国激怒、矛盾だらけの“反日”対抗策

日本は韓国人だらけ

なぜ、両国関係のこれほどの悪化を止められなかったのか。 韓国人の誤りを正し、日本人の誤解を解くために、 これまで封印してきた祖国への本音を語ります! 「スッキリ! 」「サンデーモーニング」ほか、テレビコメンテーターとして活躍する著者が初めて明かす生い立ちと、人生を賭けた二度の政治的転換の軌跡。 半島問題の専門家として、日韓の摩擦と確執を冷静かつ、客観的に分析しつつも、近年の対立激化には違和感が増すばかり。 韓国人よりも日本を、日本人よりも韓国をよく知るがゆえの苦悩と慟哭 どうこく の思いでまとめた一冊です。 「新政権の下で、今後の日韓対立はどうなってしまうのか。 これ以上の感情的な応酬を避けるために、日本はどう対処すればいいのか。 このままではいけない、何とかしなければならないとの強い思いで、韓国とのつき合い方を変えるポイントを、本書で指摘した」 「おわりに」より レビューには酷評もあったが、辺さんの真情溢れる本だと思った。 今、李栄薫、李宇衍といった人たちが反日種族主義という本を出版し、YouTube李承晩テレビにも出演して、反日韓国の過ちを指摘するという状況がうまれている。 韓国も度し難い反日一辺倒ではないと思わせる。 そしてまた、トランプ大統領の短距離ミサイル容認で北の金正恩体制存続が濃厚になってきた。 テロ国家であり、日本人を拉致した北は許せないというのが日本人の感情だろうが、現実に存在する体制との取引を考えるのも一国の選択肢だ。 辺さんの指摘通り、北との間には韓国ほどのこじれた感情は無く、独裁者金正恩さえ説得できれば国交は開ける。 韓国に顕在化してきた反文在寅の動き、北体制を取り巻く中国とロシアの思惑、これらを踏まえた今後の展望を次書で望みたい。 本書には嘘が多いが、その一つ強制連行について述べたい。 戦時中朝鮮人が、徴用で日本内地へ呼び出されたことは確かだ。 しかし徴用は当時の日本人全体に行われていたのである。 そして徴用された人数は日本人の方が圧倒的に多い。 戦時下では英国など、どの国でも徴用があって軍需工場へ一般人が働かされていたのだ。 徴用された朝鮮人は、終戦後本人の希望で、多数朝鮮半島へ帰ったが、その内245人は帰国を希望せず、日本内地に残留したのだ。 それだけのことなのだ。 本当はその245人も、有無を言わせず帰国させるべきだったのだ。 その方がうっとおしい朝鮮人がもっと少なくて済んだだろう。 辺が嘘をついているのは「徴用」を強制連行したと述べていることだ。 朝鮮人は次の真実を直視しなければならない。 「日本人は朝鮮人の最大の恩人である」 朝鮮人と日本人の関係については、考慮する必要さえないことがほとんどだ。 在日朝鮮人、韓国人がどんなことを考えているかを知る機会を提供したという意味で星二つにした。 しかし、まず前提条件として気になったのが、在日の立場が悪くなるので韓国にはこれ以上の反日をしないでほしいという、自分の利害に立脚して意見を述べている不誠実さのようなものがそこかしこに匂う点だ。 正誤論でも正義論でも道徳論でも倫理規範でもない、自分たちの利益を代表したような立ち位置に幻滅させられた。 他の評者が「嘘泣き」というように、これでは純粋な日本人の理解は得られないのではないか。 次に気になったのが、在日ヤクザ、高い犯罪率、横柄な態度、メディアで本名を隠す、教育やメディアに不当な圧力をかけて日本人の思考に影響を与えようとする、世界中でデマを撒き散らす、ディスカウントジャパンなどで海外で日本と日本人を貶めようとする、日本人の振りをして海外で悪さをする、日本中の文化・科学技術・農産技術などを盗みまくる、歴史を捏造する、沖縄基地問題に首を突っ込む、天皇制を否定する政治活動をする、日本人の言論活動を妨害する等々、日本人が嫌う在日朝鮮人や韓国人の悪行について納得いく説明も、中止させようとする意気込みも、何も感じなかった。 また、パチンコ、社会福祉や税制面での援助、様々な在日特権、朝鮮・韓国系金融機関に対する3兆円もの資本注入等々に対する感謝の気持ちも感じられなかった。 こんなことを許している国は、奴隷貿易や本当の植民地政策を行った白人国でさえない。 私自身、若い頃、海外で永住権を持って暮らしていたが、いま在日朝鮮人や韓国人が日本でしていることをその国でしようなど思いも寄らなかったし、そんなことをしている他の国民も見たこともなかった。 勿論、現地人を虐殺してぶんどった白人の国である。 しかし、そんな恥知らずなことを日本でしている在日朝鮮人や韓国人に対する認識も、反省も、直そうという意気込みも、辺真一氏からは全く感じられなかった。 恐らく、心の中では当然のことと思っているのであろうし、それが彼らの基本的な価値観なのであろう。 朝鮮人や韓国人はすぐ被害者面をして他者を批判して日本人から差別を受けたからというが、李氏朝鮮時代、半数の国民は事実上の奴隷であったし、日本人でさえ社会階級によって差別があった時代である。 アメリカでも公的な黒人差別が平然と戦後まで残っていた。 悪行を正当化できる根拠にはまったくならない。 この本を読んで感じたことは、やっぱり朝鮮半島の人間とは分かり合えないのだろう、ということだ。 最近読んだケント・ギルバート氏の『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』や呉善花氏が指摘する、どうしようもない文化の壁のようなものを感じた。 やはり、呉善花氏のように本当に日本と日本人が好きな朝鮮・韓国人は日本に忠誠を誓って日本人になり、その他の在日は在日特権をまず剥奪し、次世代まで帰国してもらうのがお互いの国民にとって幸せなことであり、他の在日外国人のことを考えてもフェアなことなのではないか。 強制連行と世界中でうそぶいているが、実際はその殆どが儲かるからといって自由意思で日本に渡った者や不法入国者や戦後居心地の良い日本で居座った棄民である。 私の知り合いの政治家は、命からがら逃げてきたそんな朝鮮人の帰化を何人も手伝ったと言っていた。 そのなかには、ここには書かないが、日本人なら誰でも知っている有名な芸能人の大御所もいる。 これ以上、日本と日本人が我慢する必要はないのではないか。 そんなことを率直に感じた本だった。 「在日の祖国離れが進んでいることは、帰化者の数が増えていることに表れている。 1991年に69万人と戦後のピークを記録した在日韓国・朝鮮人の数は、1995年くらいから毎年減り続け、20年ほどで50万人を割り込んだ。 95年から05年にかけては、毎年約1万人もの帰化者が記録されている。 このまま行けば、2050年までには在日がほぼ存在しなくなるとの試算もある」。 「私は仕事柄、日韓両国に対する中立的・建設的批判のスタンスを堅持しようと努力してきた。 それは変えるつもりはないが、正直なところ、もう韓国・北朝鮮へのこだわりはない、という気持ちが徐々に強くなってきている。 その理由は、北にも南にも、いい加減にあきれ返ってしまったという、失望と落胆の気持ちが大きい」。 「私は韓国と北朝鮮を『一卵性双生児』と呼ぶことにやぶさかではない。 発想、性格、気質が同じなのだ」。 「(日韓の)関係が悪化してしまった原因を冷静に振り返れば、歴史にあまりにもこだわり過ぎる韓国による日本否定に、行き過ぎがあったことは否めない。 韓国が反日国家の度合いを深めていくほど、在日コリアンの日本定住と帰化は進行して、いつの日か祖国に帰り、国家建設に協力するという『仮の宿』論は名実ともに過去のものとなった。 しかし、日本ではそうした現実が表立って報道されることはほとんどない」。 「日本で生まれ、日本の水で育った在日コリアンとして、日本人よりも韓国人を、韓国人よりも日本人を深く知っている私の立場から、近年の日韓関係のどこが間違っていたのか、問い直してみたい。 私なりの立場で、日本の言論空間で韓国の間違いを、日本の誤解を正さなければならないと思うようになった」。 著者は、本書を、著者が初めて公刊する「祖国・韓国への諫言」と位置づけているのです。 韓国に対する著者の「諫言」は直截で興味深いのですが、私が注目したのは、韓国、北朝鮮に中国、ロシアを加えた東アジア情勢全体から、これからの日本の外交的選択について述べている部分です。 国交を結んでいない北朝鮮が接近してくることを、日本は国交を結んでも今なお反日を叫ぶ、韓国(と中国)へのカウンターとして使える。 北との交渉は、日朝韓の関係を再構築するいい機会になるだろう。 北朝鮮のような『伝統的な』反日国家を少しでも親日にしていくことが、日本の国益に合致すると私は一貫して主張している。 夢のような話に聞こえるかもしれないが、できないことはない」と提言しているではありませんか。 日本は、韓国、中国に対する北朝鮮カードをもっと巧みに使えというのです。 私自身は、著者の提言を頭に入れた上で、直近の北朝鮮の相次ぐミサイル発射実験、核実験と、ロシアの立ち位置、企みを考慮に入れて日本の戦略を練る必要があると考えています。 読んでてやはり韓国人だなと思えるところがある。 自分等オールドカマーたる在日韓国人から見て最近のニューカマー韓国人や韓国という国に対し慟哭し苦悩し失望落胆する、と何度も書いてる点だ。 つまりあくまで被害者面し悪いのは他者だ、と主張する、典型的韓国人なのである。 坂本ナントカ等が日韓基本条約の8億ドルを優に超える金を韓国へ渡したのが韓国発展の基礎だったとか。。それは単に今日の歪んだ韓国を作り上げた基礎だっただけなのじゃないか。 韓国社会にもっと成熟して欲しいとか。。徹頭徹尾他人事。 この当事者意識の希薄さは金慶玉がTVで見せる手前勝手な論理展開と同じである。 そしてその得手勝手さを全く認知していない。 日本は韓国が無くてもかまわないが、韓国はそうではない、などと自分でも書いてるが、それが何なのか。 要するにことの本質は、韓国人というものに知性とか常識がなく、自分の感情や未来をコントロールできないということである。 つまり昆虫レベルの知能しかないのが韓国人なのである。 この本でも何度も韓国人の支離滅裂さに触れてるが、結局単なる一評論家のチラシ裏落書きであり、結局何にもならない。 イヤな目にあわされてる人達の前で、イヤな目にあわせてる奴らのことを、その親類縁者がペラペラ評論して何になるのであろうか。 韓国などと友人になれるという幻想はいい加減捨てた方が良い。 「歴史認識の問題、特に慰安婦問題で騒ぎ立てるのはもうそろそろ終わりにしたらどうかと言いたい」などという上から目線の物言いにやはり韓国人らしさを感じる。 慰安婦問題などというものは最初からなかったのである。 韓国人の汚らしい創造物なのである。

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海外の反応「中国人、韓国人、ベトナム人だらけ、日本で登録された外国人居住者の数は過去最高の282万人」

日本は韓国人だらけ

生年月日:1983年6月13日 出身:大阪府 在日韓国人3世で、本名は金 大裕(キム・デユ、김대유)。 大学卒業後、ホンダ鈴鹿に進むことが内定していたが、2005年の大学生・社会人ドラフト3巡目で阪神に指名され入団した。 2007年6月22日に結婚を発表。 2010年11月、在日韓国人の金星根監督が率いていた韓国プロ野球・SKワイバーンズの高知キャンプに合流し、同年12月正式に入団が決まった。 金村自身も在日韓国人であるため、韓国プロ野球では外国人登録されず、韓国名で登録された。 2011年10月、一軍登板機会がないまま自由契約となった。 2017年シーズン終了時点で、韓国プロ野球における最後の在日韓国人選手である。 生年月日:1956年4月8日 出身:東京都 日本の女性ジャーナリスト、1980年代にニュースキャスターとしてテレビ出演していたことでも知られる。 国際連合広報センター東京所長、東京農業大学客員教授を歴任。 大学卒業の後、『海外ウィークリー』(NHK)や『FNNスーパータイム』(フジテレビ)に出演するようになった。 後者へは1984年(昭和59年)から3年半に渡って出演、逸見政孝とともにキャスターを務めた。 同番組のオープニングでのタイトルコール、鼻にかかった「こんばんは、幸田シャーミンです」という喋りは特徴的であり、タレントの明石家さんまや清水ミチコから声優の生天目仁美までに物真似されたこともある。 母親が帰化した韓国人であるといわれる。 生年月日:1972年8月17日 出身:愛知県 日本のシンガーソングライター。 本名(旧姓):安佐里。 在日韓国人三世。 現役の内科医であり、2児の母親でもある。 デビュー当時は、ジャニス・イアン、ジョニ・ミッチェルなどの洋楽カヴァーが中心だったが、その後、「蘇州夜曲」など古典的な歌謡曲や細野晴臣、吉田美奈子等、邦楽カヴァーにも挑戦し幅広い音楽層の楽曲を収録したアルバム「day dream」「moon dance」(2003年)を発表、2007年にアルバム「こころうた」を機に自作の楽曲を発表するようになる。 平成21年度のNHK紅白歌合戦では、歌手全員がリレーでうたった紅白応援歌「歌の力」の最初の導入部を担当した。 生年月日:1984年8月25日 出身:鳥取県 国籍:韓国 日本の女優、歌手である。 旧芸名、Ahyoomee(アユミ)、ICONIQ(アイコニック)。 鳥取県鳥取市出身の在日韓国人三世。 韓国のアイドルグループ「Sugar」のメンバー・Ahyoomi(アユミ、아유미)としてデビュー。 Sugar解散後Ahyoomee(アユミ)としてのソロ活動を経て帰国し、伊藤ゆみの芸名で日本を拠点に主に女優として活動。 ロサンゼルス留学の後、2010年に「わたしが変わる」のキャッチコピーで、ICONIQ(アイコニック)と改名し歌手として再デビュー。 2016年より芸名を再び伊藤ゆみに戻して女優業を中心に活動する。 本名:大倉洋一(おおくらよういち) 韓国名:朴雲煥(パク・ウナン) 生年月日:1952年9月3日 死没:2014年11月19日(62歳) 出身:日本神奈川県 1971年に矢沢永吉らとキャロルを結成し、当初は内田裕也へプロデュースの依頼を検討したものの結局はミッキー・カーチスのプロデュースでデビュー。 キャロルでは、ギターと作詞を担当。 1975年にキャロルによる共著『暴力青春』で在日韓国人二世であることをカミングアウト。 同年本名の朴雲煥で、在日韓国人をテーマにした『異邦人の河』に主演。 2013年6月に肺癌と診断されて余命2週間を宣告された後、抗癌剤治療を経て2014年3月に退院。 同年8月に再発し、再入院して治療を続けていたが、2014年11月19日、東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センターで肺炎により死去。 62歳没。 本名:生駒みな子 生年月日:1985年12年14日 出生地:日本東京都 身長:163cm 劇作家のつかこうへいとつか主宰の劇団員であった生駒直子の一人娘、父のつかこうへいは韓国国籍のため愛原実花は在日韓国人2世。 2004年、宝塚歌劇団入団(入団時の成績は2番)。 雪組『スサノオ』『タカラヅカ・グローリー! 』で初舞台を踏み、同年、雪組に配属された。 2010年9月13日、雪組東京宝塚劇場公演『ロジェ』『ロック・オン! 』の千秋楽をもって宝塚歌劇団を退団。 同年12月よりホリプロ・ブッキング・エージェンシーに所属。 2011年8月、舞台『好色一代男』で芸能活動を再開した。 2012年には大河ドラマ『平清盛』でテレビドラマに初出演した。 また若者にない渋さ・重厚さとアウトロー性を共存させた内・外面を生かし1984年『いつか誰かが殺される』を皮切りに、ヤクザ映画・Vシネマがメインだが『その男、凶暴につき』(1989年)、『セラフィムの夜』(1996年)などに出演。 私生活では役柄と異なり、気さくで明るい性格。 後輩想いで、暴力や喧嘩も嫌いだという。 本人も「注意するのも躊躇する」と認めるほど温和である。 在日韓国人2世。 生年月日:1979年6月29日 出生地:日本東京都 身長:173cm 父親は日本人、母親は韓国人である。 9歳時に母が死去後、父と兄と共に3人で生活する。 2000年、ミスユニバースジャパン大会で「準ミスユニバースジャパン」に選出された後、ファッションモデルとしてアジアを中心に日本国外で行われるショーなどへ出演した。 2007年、日本映画『M』で主役を演じ女優デビュー。 俳優の高嶋政伸の元妻。 結婚翌々年の2010年8月頃より別居状態になり、2011年7月12日、離婚裁判中と報じられる。 2012年6月、婚姻継続を望む美元と離婚を望む高嶋の双方が出廷した、東京家庭裁判所公判の様子が広く報じられ、9月19日に結審となる。

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