ドッジ ライン。 【経済安定9原則とドッジラインの違い】簡単にわかりやすく解説!!

【経済安定9原則とドッジラインの違い】簡単にわかりやすく解説!!

ドッジ ライン

そこで本稿を初回として、この三大怪事件にまつわる謎の顛末を順次、簡単に解説していきたいと思うが、各事件発生の時系列に沿った形で、 『下山事件』・ 『 三鷹事件 』・ 『 松川事件』の順に取り上げていこうと考えている。 尚、読者諸氏には長文となる為に複数回に分載することを了承願い度く。 それでは第1回目として、 『下山事件』関係の記事連載のイントロ的な形で、事件の概要と背景について述べていこう。 事件の概要 さて『下山事件(しもやまじけん) 』とは、昭和24年 (1949年 )7月5日朝、就任後間もない 国鉄初代 総裁であった下山定則(しもやま さだのり)氏(当時49歳)が出勤途中に失踪し、翌6日未明に東京 都内の常磐線の線路上で轢死体 となって発見された事件であり、今でも 戦後史に名を残す未解決事件の一つにこの事件を挙げる人は少なくないとされている。 下山定則 総裁 それは、昭和24年(1949年)7月6日未明( 詳しくは午前0時25分)に 、東京都足立区五反野南町の 国鉄 常磐線と東武伊勢崎線が交差する高架橋・常磐線五反野ガード下 付近(現在の綾瀬付近) の線路脇で一人の轢死体が発見されたことに端を発する。 初動捜査の結果、前日の 7月5日の午前9時30分過ぎ、下山総裁は出勤の途上、 国鉄本社に向かう前に 公用車を待たせたまま百貨店・三越日本橋本店に 立ち寄 り、そのまま謎の失踪を遂げた事が判明した。 この事件は、発生直後からマスコミはおろか一般社会においても自殺説・他殺説が入り乱れ、両説に関する際限のない論争を巻き起こしたが、やがて事件を担当した警察(警視庁)は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切ったのだった。 以後、半世紀にわたって数え切れないほどの推論や主張がメディアを中心に展開されてきたにも関わらず、現在でも、誰しもが納得する真相の解明は成されていないのである。 尚、本件は昭和39年(1964年)7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立し、未解決事件となった。 事件の背景 事件発生当時の昭和24年 (1949年 )頃は、 未だ我国 が連合国の占領下にあった時期で、この日本国の統治はGHQに委ねられていたが、 戦後もこの頃(1949年)を迎えると、中国大陸における国共内戦での趨勢は中国共産党軍の勝利が決定的となり、彼ら共産党が ほぼ中国全土を掌握する勢いであった。 一方、朝鮮半島においても北緯38度線を挟んで李承晩の親米政権と金日成の社会主義 政権の南北両国家が一触即発の緊張下で対峙しており、また欧州 では東西両ドイツの対立が深刻化していた。 即ち、この昭和24年 ( 1949年 )という年は、 まさしく米ソの冷戦構造が明確化した時期であったと云えよう。 この様な国際情勢のもとで日本の統治を担っていたGHQは、対日政策の骨子を従来の民主化優先のものから反共の為の防波堤国家の建設へと方針転換したのであるが、その為には早急に日本を西側・資本主義陣営の一員として自立させる必要があった。 しかし当時の我国は物価上昇率60%という超 インフレ経済下にあって、とにかくこの経済状況を安定させることが何にも増して先決であると考えられた。 我国では総司令部(General Headquarters)の頭字語であるGHQや進駐軍総司令部という通称が用いられた。 極東委員会の下に位置し、日本の占領政策全般を遂行した組織である。 その職員にはアメリカ合衆国の軍人や民間人が多数おり、他はイギリスの軍人やオーストラリアの軍人らで構成されていた。 SCAPには、 昭和20年 ( 1945年 )8月14日にアメリカの軍人であるダグラス・マッカーサー元帥が就任、 1951年(昭和26年)4月11日にアメリカ合衆国のトルーマン 大統領 がマッカーサーを解任した後、 アメリカ軍のマシュー・リッジウェイ中将が同職に就いたが、翌 昭和27年 ( 1952年 )4月28日のサンフランシスコ講和条約発効と共にGHQは活動を停止した。 そこでGHQは、先ずはこのインフレ 経済の是正を急ぐ事とし、所謂(いわゆる)『ドッジ・ライン 』に沿った緊縮財政策を実行した。 そしてこの政策の一環として大幅な財政支出の減少・経費(人件費)節減を目的に徹底した人員合理化を目指し、同年6月1日には行政機関職員定員法が施行され、全国すべての公務員を対象に約28万人強、更に同日(1949年6月1日)に発足した日本国有鉄道(国鉄)に関しては約10万人弱(9. 5万人)の極めて大量の人員整理が要求されたのである。 その名称は、当時、GHQの経済顧問であったジョゼフ・M・ドッジが立案し勧告したことに由来。 この政策の断行により 深刻な不況(安定恐慌)が発生し、 企業に対する融資は大幅に絞られ倒産や合理化による失業者の増大などを招き、社会不安を激化させた。 しかし インフレ収束 には成功して 黒字財政をもたらし 、何とか日本経済を再建することが出来たとされる。 国の事業体として1949年6月1日に発足した日本国有鉄道は、当時の運輸省の外郭団体でもあった。 後に分割民営化により、政府出資の株式会社(特殊会社)形態のJRグループ各社および関係法人に事業は継承され、現在に至る。 》 《広告》 人気の記事 (週間ランキング)• 混戦の渦中、味方が互いに相戦う「同士討ち」はよくあることの様だ。 近代戦においても誤射や誤爆は頻繁に発生しているし、まして... 417件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , , ,• 先日、ある読書好きの友人から、中古本を古書店等で購入する際に参考とする為に、中古本の状態を表す用語について解説して欲しい... 411件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , ,• 「寺子屋」とは、安土桃山時代の末期から江戸時代において、庶民の子弟に読み・書きや算盤(そろばん)もしくは簡単な計算法や初... 259件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , , , ,• 江戸時代において、江戸市中に常住する武家には幕府から屋敷地が(貸し)与えられた。 これらの武家には、各大名家と徳川家の直接... 241件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , ,• 240件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , , , ,• 【刑事ドラマ大全】の連載第二回目は、テレビ朝日の『警視庁 捜査一課長』から始めよう。 内藤剛志さん演じる警視庁刑事部捜査一... 235件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , , ,• 名奉行!! 233件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , ,• 最終回である今回は、就学に必要な費用と「寺子屋」の収入、そして師匠の身分やその規模・体制などの経営状態について述べて、... 225件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , , , , , , ,• B-17の登場する映画の第6回目をお送りします。 今回はいずれも2000年以降の作品『フライング・フォートレス』と『マイテ... 203件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , , , , , ,• リンカーン大統領の暗殺事件には数々の謎がある。 後に多くの不審点が指摘され、謎の重大歴史事件として現在にまで伝えられている... 186件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , ,• 185件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , ,• ジャンヌ・ダルクは、いろいろな伝説に彩られた謎多き人物です。 男だったとか、しかも王家の血をひいた王子だったという... 176件のビュー 投稿者: カテゴリ: , ,• 175件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , ,• 超常現象を紹介するシリーズを始めました。 信憑性はほとんどゼロ、「記事」としてではなく「読み物」としてお楽しみくだ... 172件のビュー 投稿者: カテゴリ: , ,• 昨年(2014年)6月6日から開始した【ノルマンディー上陸作戦70周年記念】のシリーズも、1年がかりでようやく上... 147件のビュー 投稿者: カテゴリ: , , , , , , ,.

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ドッジ=ラインについて、その後の経済への影響も含め教えてください。

ドッジ ライン

ジョセフ・M・ドッジって何者? 引用 1891年、デトロイトの貧しいクエーカー教徒の芸術家の息子として生まれた。 大学には進学せず、高校卒業後、銀行にメッセンジャーとして勤め、事務や簿記をしていた。 1911年にミシガン州政府で証券と銀行の調整分野の仕事についた。 20年代初め、デトロイト銀行の株式売買担当員として迎え入れた。 大恐慌の最中、ドッジはデトロイトのいくつかの銀行の合併と再編成を支援し、33年にミシガン州で一番歴史のあるデトロイト貯蓄銀行の頭取兼取締役に就任した。 彼は、固い仕事をするまじめ一方の銀行家という評判を獲得している。 ドッジの指導のもとで、デトロイト貯蓄銀行は、資産額も36年の6000万ドルから、ドッジが総司令部の財政顧問に任命された48年には5億5000万ドルへと急成長した。 37年にデトロイト代表として復興金融公社の諮問委員会に加わり、翌38年にはシカゴ地区連邦準備銀行の総裁を六年の任期で務めた。 戦争中、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の要請で、軍需契約委員会や価格調整委員会の委員長などいくつかの経済関係の役職についた。 ヨーロッパの戦争が終わると、ドッジはアメリカの世紀を築くための役回りを演じることになった。 ドイツの金融体制が崩壊した際、ドッジは軍政長官ルシアス・クレイ将軍の経済顧問代理となり、デフレ的な通貨供給量削減を計画し、一九四八年のベルリン封鎖を招いている。 47年から51年まで、マーシャル・プランの基金を扱う経済協力局(ECA)に対して財政・金融問題を諮問する委員会の委員でもあった。 貧しい家柄に育ったが、非凡な才能は努力によって、潰されることなく、銀行分野で開花した。 世間からその有能さを認められ、デトロイト銀行頭取やドイツ占領軍金融顧問等の職に就いた。 これが、ジョセフ・ラインの大筋の経歴であり、この後、ドッジ・ラインを立案していくのである。 ドッジ・ラインって何? 戦後の日本経済を立て直すため。 自立と安定をはかった財政政策。 本当に自立と安定のためだったのか? 何か思惑があるのでは?! 調べていくうちに、ドッジ含め、それを指導するアメリカ側の思惑が見えてきた。 本当は、日本のためではなかった?! 《ドッジ・ライン政策の目的》 アメリカの支配する世界資本主義経済の中に、自由競争を基盤として日本を組み込むこと。 そのため・・・インフレを抑制し、輸出を増大する必要! だからこそ、ドッジが掲げた政策として、3つ挙げられる。 日本の政策を見直すとともに、国家の総合予算全体に着手していった。 池田は一般会計だけを取り上げ、1948年以来予算は黒字を保っているとしていたが、実際は、国立学校や国立病院、政府の貸付資金、日本国有鉄道といった政府所有企業を含めた特別会計の赤字を無視していた。 赤字を補う方法として、公債発行や日本銀行から借入金を使っていたのである。 <政府の総合予算の赤字> 46年度 620億円 47年度 1490億円 48年度 3480億円 国家の歳入の約1〜2割がインフレ促進に使われていた。 予算見直しで、歳出減するために削減対象を拡大していた。 運賃6割値上げ、運営コストを切り下げて採算をとった 1949年度予算の全歳出が減少し、税収は大幅に増加。 予算も均衡になり、インフレをもたらす政府借入金の増加を抑制した。 見返資金は、1949〜50年度の全予算の2割を占めていた。 この資金には二つ目的があった。 また、復興金融金庫を縮小し、ゆくゆくは廃止の方向に持ち込みたかったが、廃止までは至らなかった。 為替レートを低く設定しすぎて、「国内市場の商品を輸出に回すことが目的なのに、輸出品が国内市場に流れる」ことを懸念していた。 1ドル=330円で一度は手を打たれたが、最終的には1ドル=360円で固定された。 以後、22年間この為替レートは続くことになる。 建前上は、日本経済の自立と安定をはかった金融引き締め政策だが、ドッジらの思惑は全く別のところにあった!! 米国の支配下におくため、日本を手なずける策がドッジ・ラインだったのではないか? 他にも、ジョセフ・ドッジと関わりがあるのではないかという記事を見つけたので、以下紹介する。 引用 クリーブランド・ドッジ。 ドッジ一族は、後にブッシュ一族と共に、世界最大の銀行シティバンクを経営。 第二次世界大戦後、日本に米軍を常駐させ、日本を再軍備=自衛隊を作り、それと引き換えに日本を経済成長させ、「日本と中国、ロシアとの戦争に備えさせる」政策=いわゆるドッジ・ラインを作成した一族が、このドッジである。 現在の日本に常駐する米軍、また自衛隊、日本の「豊かさ」は、麻薬企業ラッセルの取締役ドッジ一族により「設計」されて来た。 ラッセル社の経営陣の中に、クリーブランド・ドッジがいる。 ジョセフ・M・ドッジと何かつながりがあるのではないか? この二人の関係性は?! まだ推測だが、ジョセフ・M・ドッジとクリーブランド・ドッジは、近い関係だったのではないか。 親戚? また、ラッセル社とのつながりは?! 実に興味深い人物である。 引用先 オルタナティブ通信 参考文献 『占領1945〜1952』 ハワード・B・ショーンバーガー 最後まで、読んでいただきありがとうございました。

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ドッジ・ラインとは

ドッジ ライン

国富の25. 3%、建物の24. 5%、家具・家財の20. 5%、船舶にいたっては80. 6%も損失しました。 これが戦争のもう一つの現実です。 戦後の食生活の状況は下記の表から判断できます。 衣服や貴金属などを1つ1つ手離して、食料品を手に入れることから「竹の子生活」といいます。 消費者物価指数をみると、猛烈なインフレだったことが分かります。 これでは、現金は、ほとんど無価値です。 2 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1934〜1946年 の平均=100 主食 78 56 75 77 83 83 副食 60 58 53 63 68 82 嗜好品 29 27 31 37 42 48 物価指数 308 5080 10910 18900 23690 21990 3 GHQの指示を受けた政府は、日銀券預入令により預金の出し入れを禁止し、金融緊急措置令により旧円を無効にし、新円に切り替え、インフレを抑制しようとしました。 他方、臨時財産調査令により、25〜90%という強烈な課税を行いました。 皇族の多くが財産を失いました。 これを西武の堤康次郎が手にいれ、プリンスホテル王国の基礎としました。 次に傾斜生産方式により重要産業の復興を目指しました。 中国大陸では、中国共産党が支配権を確立しました。 そのことに危機感を感じたGHQは、「竹の子生活」を送っている日本人がインフレにより困窮している状態では、共産革命の恐れを感じ、資本主義的な豊かな生活を日本にもたらすよう、大幅に占領政策を転換しました。 そこで、税制上、狙われたのが公務員の削減です。 税金による人件費の節約です。 4 1948(昭和23)年10月15日、 @48第二次吉田茂内閣(民主自由党単独)が誕生しました。 1949(昭和24)年1月20日、 トルーマン大統領は、 低開発地域開発計画を提唱しました。 これを ポイント=フォアといいます。 1月23日、 @24衆議院議員選挙が行われ、民主自民党(民自党)が第1党になりました。 1月25、ソ連・東欧5カ国は、 経済相互援助会議を設置しました。 これを コメコンといいます。 1月31日、 中国人民解放軍が北京に入城しました。 2月1日、アメリカの陸軍長官である ロイヤルとGHQの経済顧問である ドッジ公使らが来日しました。 2月10日、民主自由党の吉田茂・民主党の 犬養健は、 マッカーサーに協力を求め、「 長期安定政権を期す」との共同声明を発表しました。 2月16日、 @49第三次吉田内閣(民主自由党・民主党連立)が誕生しました。 2月16日、吉田首相は、経済安定9原則の忠実なる実行を強調する談話を発表しました。 2月25日、アメリカ陸軍長官 ロイヤルは「日本が攻撃された時は、米軍が反撃する」と言明しました。 5 3月1日、ドッジ公使は、池田勇人蔵相と会談し、「 収支均衡予算編成の方針」を検討しました。 3月7日、ドッジ公使は、内外記者団会見で、 経済安定9原則実行に関し声明を発表しました。 これを ドッジ=ラインといいます。 マッカーサーは、共産主義から日本を防衛するためには、日本経済の自立が必要と考え、公務員の削減・課税を強化する方針を提示しました。 そして、マッカーサーは、「達成を遅らせようとする企図は…抑圧されなければならない」と演説しました。 当時、この「抑圧」という意味が分かりませんでした。 3月31日、ドッジ=ラインの実施により、 復興金融金庫の貸出が急減しました。 4月1日、GHQは、 ガリオアおよびエロア輸入物資の円勘定に関する覚書を発表しました。 4月4日、ポツダム政令で、 団体等規制令が公布されました。 その結果、団体の構成員の届出が義務付けされました。 4月15日、ドッジ公使は、昭和24年度予算案につき、 超均衡予算の実施を強調しました。 5月4日、吉田内閣は、行政機関職員定員法を決定し、 26万7300人の行政整理を決めました。 5月7日、吉田首相は、外人記者に講和条約締結後も 米軍の日本駐留を希望すると言明しました。 5月10日、 シャウプ税制使節団が来日しました。 5月31日、行政機関職員定員法が公布され、 28万5124人の行政整理を発表しました。 6 6月26日、国労中央委員会は、行政整理反対のため「ストを含む実力行使」の方針を決定しました。 6月27日、政府は、「労組の決定は、公共企業体労働関係法第17条違反の結果をもたらすもの」という声明を発表しました。 6月30日、福島県平市で、労働者・市民は、「常磐地帯の中小炭坑の首切りに反対」と書いた掲示板撤去に反対して警官と衝突し、平警察署に乱入・占拠しました。 この結果、騒擾罪により300人が検挙されました。 これを 平事件といいます。 7月4日、マッカーサーは、「 日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明しました。 7月4日、国鉄は、行政機関職員定員法に基づく 第1次人員整理3万700人を通告しました。 7月5日、国鉄総裁の 下山定則は、登庁の途中で行方不明となりました。 7月6日、国鉄総裁の下山定則の轢死体が発見されました。 これを 下山事件といいます。 7月12日、国鉄は、行政機関職員定員法に基づく 第2次人員整理6万300人を通告しました。 7月15日、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人が死亡しました。 これが 三鷹事件です。 7月17日、国労の分会幹部2人が逮捕されました。 7月18日、国鉄は、 鈴木市蔵副委員長ら国労中闘の共産・革同派14人を免職しました。 7月21日、 国鉄労働組合は分裂し、合法闘争を主張する民同派が主導権を掌握しました。 8月11日、郵政・電通両省は、 2万6500人の人員整理を全逓労組に通告しました。 8月17日、旅客列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡しまし。 これを 松川事件といいます。 8月18日、官房長官の 増田甲子七は「集団組織による計画的妨害行為と推定される」と語りました。 7 9月10日、松川事件に関し、共産党員・国鉄・東芝労組員らが逮捕されました。 9月13日、アメリカの アチソン国務長官・イギリスの ベヴィン外相は、ワシントンで会談し、 対日講和会議の早期開催に合意しました。 9月15日、GHQは、税制の根本改革という シャウプ勧告の全文を発表しました。 9月19日、 人事院は、国家公務員法に基づき、 公務員の政治活動を制限しました。 9月25日、ソ連のタス通信は、 ソ連の原爆保有を報道しました。 10月1日、 中華人民共和国が成立し、 国家主席(President)に 中国共産党総書記である 毛沢東が就任しました。 国務院総理(首相)に 周恩来が就任しました。 10月26日、松川事件で6人が起訴されました。 その後、14人が起訴されました。 11月11日、吉田茂首相は、参議院で、「単独講和でも全面講和に導く1つの途であるならば喜んで応ずる」と答弁しました。 11月28日、 国際自由労連が結成され、53カ国が加盟しました。 12月4日、社会党中央委員会は、講和問題に対する一般的態度として「全面講和・中立堅持・軍事基地反対の 平和3原則」を決定しました。 12月5日、全官公脱退の日教組・国鉄・全逓などは 官公労を結成しました。 12月7日、アメリカが支援した 蒋介石の 国民党政府は、首都を台湾の 台北に移転しました。 12月25日、マッカーサーは、戦犯に特赦令を出し、 BC級戦犯46人を釈放しました。 12月27日、中国人民解放軍は、 中国大陸を完全に解放しました。 8 1950(昭和25)年1月1日、マッカーサーは、年頭の辞で「日本国憲法は、自己防衛の権利を否定せず」と言明しました。 1月5日、トルーマン米大統領は、「台湾問題に軍事介入せず、経済援助にとどめる」と声明しました。 1月6日、イギリスは、中華人民共和国を承認しました。 1月12日、国務長官の アチソンは、「アメリカの防衛線はアリューシャン・日本・沖縄を結ぶ線である」と演説しました。 1月13日、国連安保理は、 ソ連の国民政府追放案を否決しました。 その結果、ソ連は、7月3日まで議国連をボイコットしました。 1月19日、社会党第5回大会で、指導権争いから左右両派に分裂しました。 左派は 鈴木茂三郎書記長を選出、右派は 片山哲委員長・ 水谷長三郎書記長を選出しました。 2月4日、北京放送は、台湾の年内解放を言明しました。 2月9日、共和党の マッカーシー上院議員は、「 国務省に57人の共産党員がいる」と演説し、 マッカーシー旋風、または 赤狩りの始まりといいます。 2月17日、韓国大統領の李承晩が来日し、マッカーサーと反共政策につき会談しました。 9 4月26日、野党外交政策協議会は、平和・永世中立・全面講和を主張する共同声明を発表しました。 4月27日、アメリカ政府筋は、「中立声明は理想論である」との見解を発表しました。 5月3日、マッカーサーは、「共産党は侵略の手先」と非難し、非合法化を示唆しました。 5月3日、吉田首相は、南原繁東大総長の全面講和論を「 曲学阿世」の論と非難しました。 5月6日、南原繁東大総長は、「学問への権力的強圧である」と反論しました。 6月6日、マッカーサーは吉田首相宛て書簡で「共産党中央委員24人の公職追放」を指令しました。 6月18日、 ジョンソン国防長官・ブラッドレー統合参謀本部議長が来日しました。 6月25日未明、38度線全域にわたり、戦争状態に入りました。 これを 朝鮮戦争の勃発といいます。 6月25日14時、ソ連欠席の国連安保理は、北朝鮮を侵略者と認めるアメリカ決議案を採択しました。 7月8日、マッカーサーは、吉田首相宛て書簡で、「国家警察予備隊7万5000人の創設、海上本朝の拡充8000人増員」を指令しました。 7月11日、産別会議を脱退した組合や中立組合は、反共民主労組として、 日本労働組合総評議会を結成しました。 議長に武藤武雄が就任しました。 7月15日、最高検察庁は、徳田球一ら9人を出頭命令拒否の理由で逮捕状を発令しました。 7月24日、を勧告しました。 7月28日、GHQの申し入れにより、新聞各社は共産党員とその同調者を追放しました。 これを レッドパージ(the Red Purge)といいます。 10 8月10日、ポツダム政令で、 警察予備隊令が公布されました。 第1陣として7000人が入隊しました。 8月16日、日産は、 朝鮮特需で米軍よりトラックの大量受注に契約しました。 8月25日、GHQは横浜に在日兵站司令部を設置と発表しました。 これが 朝鮮特需の本格化です。 特需を背景に、景気が回復しました。 これを 特需景気といいます。 9月21日、 第2次シャウプ税制勧告を発表しました。 その内容は、 平衡交付金の大幅増額でした。 10月7日、ドッジが来日し、「 ディスインフレは堅持する」と声明しました。 10月13日、吉田内閣は、戦犯覚書該当者以外の 1万90人の追放解除を発表しました。 10月29日、朝鮮戦争の特需が累計で1億3000万ドルに達しました。 11月8日、GHQは、「11月21日に重光葵が巣鴨刑務所を仮出所する」と発表しました。 これはA級戦犯では初の処置です。 11月10日、吉田政府は、太平洋戦争開戦後の陸海軍学校入学者の旧軍人3250人に初の追放解除を発表しました。 12月13日、地方公務員法が公布され、地方公務員・公立学校教員の政治活動・争議行為等が禁止されました。 12月、松川事件に関して、福島地裁は「死刑5、無期5など全員有罪」と判決しました。 11 1963(昭和28)年、松川事件に関して、最高裁は「再上告破棄」、つまり全員に無罪を判決しました。 * この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。 下山事件、三鷹事件 1 授業中、下山事件・三鷹事件・松川事件を扱いながら、背筋が寒くなったことを覚えています。 「政治は目的のためには、ここまでやるか」という思いと、「日本人は過去の歴史で、ここまで残酷な手段を使ったか」ということです。 GHQでは、当初、実権を握っていたのは中国派、つまりニューディール派でした。 しかし、反共派のウイロビー少将らは、アジア情勢の変化から、ニューディール派を追放し、日本の経済自立化と共に、日本共産党の拠点である官公労の弱体化を画策しました。 2 三大事件の前の日本の状況を概観します。 1949年5月20日、運輸省の下山定則事務次官は、参議院選挙に立候補するため、辞職を決意していました。 5月31日、行政機関職員定員法を公布し、専売公社や国鉄職員などの公務員 28万5124人が人員整理の対象となりました。 国鉄は62万人の19. 4%に該当する12万人の解雇を決定しました。 6月1日、国鉄は、新しい公共企業体として発足し、初代の総裁が就任することになっていました。 しかし、初代総裁の任務は、解雇とそれへの対応でした。 誰も嫌がります。 近鉄の村上義一社長もそのことを知って、広川弘禅幹事長や大屋晋三運輸大臣が何度足を運んでも拒絶しました。 困った大屋運輸相は、同じ運輸省の下山定則事務次官に懇願します。 下山事務次官は、選挙の立候補のこともあり、ことの重大さを認識できなかったのか、「私が犠牲になります」と承諾しました。 6月9日、国労は、組合管理の人民電車を走らせました。 6月26日、国労中央委員会は、行政整理反対のため「ストを含む実力行使」の方針を決定しました。 6月27日、政府は、「公共企業体労働関係法第17条違反の結果をもたらすもの」と発表しました。 6月30日、福島県平市で、労働者・市民が警官と衝突する 平事件がおこりました。 7月2日、国鉄と国労の交渉が決裂し、下山総裁は、「7月20日までに9万500人を解雇する」と宣言しました。 7月2日深夜、GHQの民間運輸局(CTS)のシャグノン中佐は、下山総裁に対して、ピストルをテーブルの上に置き、「4日には整理を発表しろ」と迫りました。 7月4日15時、国鉄の下山総裁は、GHQの民間運輸局(CTS)のシャグノン中佐の指示で 第1次人員整理3万700人の名簿を発表しました。 発表後の下山総裁にはこんな話が残っています。 下山総裁は、放心状態で、テーブルにあった国鉄の芥川公安局長の茶を飲み干しました。 給仕が茶を追加しようとすると、下山はものすごい形相で「いらん」と怒鳴ったといいます。 その後で、給仕がアイスクリームを出すと、下山総裁は自分の分を食べた後、不在の人も分まで食べています。 それも、服の上にアイスクリームをだらだらと垂らすような食べ方だったといいます。 簡単に3万700人を解雇といっても、その人には、老いた父母、妻、食欲旺盛な子もいるでしょう。 その家族を思うと、放心状態になるのが人情です。 7月3日10時、下山総裁は、自宅に帰りました。 3 7月5日8時20分、総裁専用車の運転手大西政雄は、総裁を乗せて自宅を出発しました。 10時に百貨店が開くのに、「三越にやってくれ」とか「白木屋に行ってくれ」といつもと違う言動をしました。 7月5日8時45分、下山総裁の大塚辰治秘書は、国鉄本社の玄関に立ち、下山総裁を迎えることを日課になっていました。 しかし、下山総裁が姿を見せませんでした。 今日は9時から局長会議が予定されていたので、大塚秘書は、下山総裁の自宅に電話しました。 下山夫人から「いつもの時間に出た」と返事がありました。 7月5日9時5分、下山総裁は、千代田銀行(今の三菱銀行)に行きました。 7月5日9時30分、大塚秘書は、下山総裁が立ち寄りそうなGHQの民間運輸局(CTS)や民政局(GS)に電話しましたが、「未だ来ていない」という返事でした。 7月5日9時37分、下山総裁は「5分で済む」と行って、三越に入っていきました。 これが大西運転手が下山総裁を見た最後でした。 7月5日10時15分、三越の案内係が地下鉄駅の方に降りていく下山総裁を確認しています。 7月5日12時、連絡を受けた警視庁の田中栄一警視総監は、刑事部長らを招集して協議しました。 7月5日13時43分、東武鉄道五反野駅の駅員は、ある男から「この辺に旅館はないですか」と聞かれたので、末広旅館を紹介しました。 7月5日12時、末広旅館の長島フクは、ある客を2階の4畳半に案内しました。 その客はぼんやりと窓辺に腰掛けていました。 7月5日17時、国鉄は、下山総裁失踪の事実を公表しました。 NHKラジオは、臨時ニュースとして「下山総裁失踪」を報じました。 これが 下山事件の発端です。 7月5日17時、NHKラジオの臨時ニュースを聞いた大西運転手は、7時間以上も待たされていましたが、下山総裁は過去にも三越劇場で過ごすことがあったので、劇場内に入っていきました。 しかし発見できなかったので、国鉄にその経緯を電話しました。 7月5日17時30分、客は末広旅館を出て行きました。 人相を確認すると、身長は170センチ、ネズミ色背広、白ワイシャツ、チョコレート色の靴など下山総裁と一致しました。 7月5日19時、国電日暮里駅の駅員は、後に、荷物台に白墨で「五・十九・下山罐」と書かれているのを発見したと証言しました。。 これは「5日19時、下山をドラム缶に入れて運べ」という解釈する人もいます。 最初の 他殺説の証言です。 7月5日21時、下山総裁の自宅に電話がかかり、電話を受けた同居人の仲村量平の妻は、アリマと名乗る男性が「総裁は今日、自分のところに立ち寄ったが、元気だったので心配はいらないと思う」と言ったと証言しました。 4 7月6日0時25分、国鉄の下山定則総裁(49歳)の轢死体が発見されました。 死体は、首・胴体・右腕・左脚・右足首に轢断されていました。 現場を0時19分に通過した869貨物列車に、下山の衣類の切れ端・肉片・血痕が付着していたので、この列車が原因と断定されました。 これも 他殺説の証言です。 7月6日3時20分、斎藤綾瀬駅長は、遺体を線路の反対側に移動させました。 「土砂降りの雨だったが、轢死にしては現場には血が少なく、胴体を持ち上げたとき、その下の石は白く乾いていた」と証言しました。 これも 他殺説の証言です。 7月6日8時、東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、「生活反応が認められず、頭と右肩の轢かれた傷跡と、死体に死斑がなかったことは、自殺者の場合によく認められる。 本件死体は生体が轢かれたものの可能性を示す」と証言しました。 これも 他殺説の証言です。 7月6日17時30分、東京大学法医学教室の古畑種基教授は、解剖結果から、「轢断創からは生活反応としての出血がなく、死後轢断と鑑定する。 死後轢断となれば、自殺ではなく他殺である。 死因は不明だが、睾丸の傷からみて、局所を蹴られたショック死と考えられる」と証言しました。 これも 他殺説の証言です。 *解説(他殺説が多数を占める中、国労は孤立し、第1次3万700人の解雇が終わりました) 5 7月12日、国鉄は、 第2次人員整理6万300人の名簿を発表しました。 7月15日、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人が死亡しました。 これが 三鷹事件です。 7月17日、国労の分会幹部2人が逮捕されました。 7月18日、国鉄は、 鈴木市蔵副委員長ら国労中闘の共産・革同派14人を免職しました。 7月21日、 国鉄労働組合は分裂し、合法闘争を主張する民同派が主導権を掌握しました。 8月11日、郵政・電通両省は、 2万6500人の人員整理を全逓労組に通告しました。 8月17日、旅客列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡しまし。 これを 松川事件といいます。 8月18日、官房長官の 増田甲子七は「集団組織による計画的妨害行為と推定される」と語りました。 8月、東京大学法医学教室の古畑種基教授は、「死体に血液が非常に少なかったことから、体の血を抜き取って殺した。 失血死だったかも知れない」と証言しました。 その後、東大法医学教室の古畑教授は、衆議院法務委員会で、「自殺ということも考えられなくもない」と証言しました。 解剖を担当した桑島直樹博士は、「轢かれたときは、死体と言ったが、自殺とも他殺とも断定していない」と発言しました。 9月10日、松川事件に関し、共産党員・国鉄・東芝労組員らが逮捕されました。 12月31日、捜査1課は「下山は自殺」と結論づけて、捜査本部を解散した。 *解説(目的を達成するまでは、解雇を通告された労働側の他殺説が多数を占めました。 その結果、国鉄の従業員9万1000人が解雇されました。 解雇という目的が達成されると、下山総裁の自殺説と断定し、犯人探しを終了させました) 6 作家の松本清張氏は、占領軍情報機関(CIC)による他殺説を採用しています。 作家の大野達三氏は、中央情報局(CIA)による他殺説を採用しています。 1964年7月6日、下山事件は、自殺か他殺か不明のまま、時効が成立しました。 7 国鉄の従業員解雇に大きな役割を果たした三鷹事件です。 7月12日、国鉄は、 第2次人員整理6万300人の名簿を発表しました。 1949年7月15日20地儒23分、中央線三鷹駅構内の電車引込み線に停車していた7両編成の無人電車が暴走して、車止めを突破しました。 無人電車は、改札口に向っていた乗客を跳ね飛ばし、駅前交番を突きぬけ、道路を横切って商店街に突っ込んで停車しました。 この事故で、死者6人、負傷者20人を出しました。 7月16日、吉田首相は、「社会不安を起こしているのは一部の労組であり共産主義者の扇動によるもの」と声明しました。 7月17日、東京地検は、三鷹事件の犯人として、三鷹電車区の飯田七三元執行委員長・三鷹電車区の山本久一を逮捕しました。 2人とも共産党員でした。 8月1日、三鷹電車区の竹内景助・伊藤正信・横谷武男ら7人が「電車往来危険・同転覆・同致死罪」で逮捕されました。 その後、2人が逮捕され、計11人に達しました。 11人のうち、竹内景助以外の10人は、すべて共産党員でした。 8月16日、山本久一はアリバイが証明されて、釈放されました。 1950年8月11日、東京地検は、共産党員9人と竹内景助の共同謀議として起訴しました。 東京地裁は、共産党員9人を無罪として、竹内景助の単独犯行として無期懲役を言い渡しました。 竹内は、アリバイがあると主張して控訴しました。 *解説(無罪が確定した時には、国鉄の解雇は終了していました) 1951年3月30日、東京高裁は、竹内景助に対して、一審を破棄して、死刑を言い渡しました。 1955年6月22日、最高裁は、竹内景助に対して、上告を棄却し、死刑が確定しました。 1956年2月3日、竹内景助は、再審を請求しました。 1967年1月18日、竹内景助は、東京拘置所で、脳腫瘍のため、獄死しました。 8 その後の調べで、竹内景助のことが判明しました。 竹内景助は、人員整理に名簿が登載されたので、消防署の面接を受け、合格していました。 しかし、逮捕されたことで、合格は取り消されました。 次の就職が内定している人間が、いくら解雇の腹いせといえ、電車を暴走する危険を犯すとは考えられません。 事故当時、竹内景助は、銭湯で複数の人間が目撃していおり、アリバイを証明しましたが、警察では採用されなかったといいます。 裁判に証言すると、人事面で考慮されると脅されたともいいます。 9 松川事件は、別項であつかいます。

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