千 と 千尋 考察。 千と千尋の神隠し シナリオ 考察

千と千尋の神隠し・なぜ両親は豚になった?冷たい態度の理由と食べ物の意味を考察

千 と 千尋 考察

Contents• 千と千尋の神隠しラストは時間がどれくらい経っていた? 千と千尋の神隠しのラストって、車汚れていたよね。 あちらの世界と現実の世界の時間が違うと示している。 2001年7月に公開されたこの作品は、308億円もの興行収入を叩きだし、「タイタニック」や「アナと雪の女王」、「君の名は」などを抑え、今も 日本歴代興行収入堂々の第一位の記録をキープしています。 監督を務めた宮崎駿は「 もののけ姫」までにやりたいことをやり切り、この作品からかなり作風を変えたのだとか。 それまでの宮崎駿作品はメッセージ性のしっかりしたものばかりでしたが、確かに「千と千尋の神隠し」では明確なメッセージはないように感じます。 とはいえ、興行収入やテレビ放送時の視聴率などを診れば、世間からの評価は一目瞭然でしょう。 そんな「千と千尋の神隠し」について様々な考察を行っていますが、今回は 千と千尋の世界での時間の流れについて見ていきたいと思います。 トンネルに入ってから色々なことがあったものの、そこまで長い時間が経っているようには思えないのに、ラストシーンでは現実世界でかなりの時間が経っているような描写もされていますよね。 では、千尋たち家族がトンネルに入り、また出てくるまでに現実世界ではどれくらいの時間が経過していたのでしょうか? 宮崎駿監督へのあるインタビューによると、 現実世界で経過した時間は2か月だそうです。 冒頭のシーンとラストシーンでの車周辺の変化を見てみると• 木の生い茂り方が違う(成長している)• 車の上に葉っぱが積もっている• 車の中がホコリだらけになっている• トンネルの壁が朱色からただの石垣になっている(魔法が解けたという描写?) などがありました。 お父さんもビックリしていましたよね。 この変化から、たった数日の出来事ではないことがわかります。 ではなぜ2か月なのか・・・?• エンジンが問題なくかかる• 半袖でも寒くなさそう だからです。 まだ気候が激しく変化していない頃で、しかも車の中に埃が溜まるくらいの期間ということでだいたい2か月くらい経過している、ということで間違いなさそうです! ちなみに 車のバッテリーは一般的に、1年くらい放置すると上がってしまうため、数か月に1度はエンジンをかける必要があります。 ということは、戻ってきたのが1年後の夏ということは考えにくいですよね。 では、経過した月日は半年くらいでは?という意見もありましたが、そうすると季節は真冬。 とてもじゃないですが、半袖ではいられないでしょう。 やはり 現実世界で経過した時間は2か月くらいが妥当だと考えられます。 湯屋で千尋は何日過ごした? 千と千尋の神隠しで千尋は湯屋「油屋」にいったい何日過ごしたのだろ.. 帰ったとき、車に草やツタが被っていたけど、もし一年以上いたら相当苦労してたよね。 既に何日か経ってるのか?ってわけじゃないか — 米著功 yonecyoko 現実では2か月くらい経過していましたが、千尋は湯屋(トンネルの中)で何日くらい過ごしたのでしょうか? トンネルの中での出来事を時系列でまとめてみました。 トンネルを抜けてくる(昼)• 湯婆婆と契約する(夜)• 湯屋で働き始める・両親(豚)と対面する(昼)• 「お腐れ様」の接待をする(夜)• 瀕死のハクを救う• カオナシが暴れる(昼)• 電車で銭婆の所へ行く(夜)• ハクの名前を思い出す(昼)• 両親を助けて湯婆婆との契約を解除する。 現実世界へ(昼) これらの出来事がコンスタントに起こったと考えると、湯屋で過ごしたのは 約4日。 あっという間の滞在だったといえます。 しかし! 4日よりもっと長い間滞在していたのではないか?という意見もたくさんあり・・・ その理由の1つが一緒に働いているリンと千尋が「 今日から大湯番だ」と言われること。 また、この話では最初と最後で千尋の心の強さが全く違いますよね。 千尋は様々な出来事を通し、恐れていた湯婆婆にも「おばあちゃん」などと言ってしまうくらい、すごく芯のある強い人間に成長しています。 話し方や目つきも別人のようです。 子どもの成長はすごい!とはいえ、たった3,4日でここまで変われるものでしょうか? ある程度の間湯屋で過ごし色々な経験を積む中で、千尋は成長したと考える方が自然な気がします。 とはいえ現実世界とは時間の流れ方が異なるという前提があるので、湯屋にいたのは2か月よりも短い間。 総合すると、千尋が湯屋にいたのは短くて1週間ほど、長くて1か月くらいかな~と思うので、間を取って 約2週間だと予想しました! 2週間なら、これだけの出来事が起こっても自然ですし、千尋も親のいない特殊な環境の中で強く成長できるでしょう。 まとめ ジブリ映画「千と千尋の神隠し」の 時間の経過について考察しました! 物語の中で経過した時間は、車周辺の環境の変化、湯屋での出来事、千尋の成長などから• 現実世界・・・約2か月• 湯屋の世界・・・約2週間 と予想しました! トンネルの中と外では時の流れ方が違うだろうと思うので、ハクも早く湯婆婆とケリをつけて現実世界に戻って来られるといいですね>< ぜひ細かい描写の中から千と千尋の世界の時間の流れを感じつつ、作品を楽しんでください!.

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『千と千尋の神隠し』を遊郭の視点から考察してみる

千 と 千尋 考察

冒頭と結びに登場する彼女ですが、千尋に対してやたらと冷たい態度を取っているように思えます。 対照的に、千尋が迷い込む世界で支配者として君臨している湯婆婆(CV:夏木マリ)は、息子の坊(CV:神木隆之介)に対し過保護であり、かなり甘やかしている様子。 しかし、甘やかされてばかりで何もできなかったはずの坊はネズミに変えられ、家を飛び出し旅をすることで、最終的に千尋の味方をします。 2本足で屹立し、湯婆婆から自立したような状態になるのです。 そしてその描写があった直後、千尋は最後の試練を乗り越え、冷たい態度を取っていた母親のもとに帰ることができたのでした。 子育てにおいて、子どもを立派に自立させることはひとつのゴール。 一見淡白そうな千尋の母親でしたが、やはり最後には帰るべき場所として設定されており、千尋がそれを見失うことはありません。 2人の親の対立構造は、甘やかしてばかりが親の在り方ではないというメッセージになっているようにも感じられます。 宮崎駿監督いわく「カオナシなんて周りにいっぱいいますよ。 中略)ああいう誰かとくっつきたいけど自分がないっていう人、どこにでもいると思いますけどね」とのこと。 彼はカオナシという名前の通り、「個性を持たない」存在として表現されているようです。 実際、カオナシは千尋に自分のことを尋ねられたとき、かなり困ったような表情をしていました。 「自分がない」、「自分の居場所がない」からこそ他者の欲望を煽って自身に取り込み、パーソナリティを得ようとしたのでしょう。 カオナシはしばしば千尋にお金を渡そうとしますが、彼女は断り続けました。 この行為からカオナシは「欲望の象徴」なのではないか、という考え方もあります。 そして、一連の掛け合いや砂金がやがて泥へと変わってしまったことを考えると、この作品には「お金では買えないものがある」というテーマも存在するのかもしれません。 海原電鉄の黒い乗客 3週連続冬もジブリ! 来週は世界が絶賛、日本映画市場圧倒的なNo. 乗客が黒い影で表現されている理由は、作者が宮崎駿であることに注目すれば紐解けそうです。 宮崎駿は宮沢賢治の影響を強く受けていることで有名です。 海原電鉄は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が背景にあると思われます。 死者をあの世へ送るための銀河鉄道に着想を得ているのだとすれば、『千と千尋の神隠し』で舞台となっている八百万の神がいる世界は「あの世」に重ねられているのかもしれません。 海原電鉄の乗客が亡くなった人々として黒い影になっているのも頷けるのではないでしょうか。 その説を支持した場合、『千と千尋の神隠し』という物語は"千尋が味わった一時の臨死体験"とも言えそうですね。 千尋さんは書き間違えただけなのか、わざと間違えたのか…気になるところですぅーー😳 — スタンリー@金曜ロードSHOW! それはなぜなのか。 物語の中で明示されてはいませんが、実は彼女が生還できたのにはきちんと理由があります。 千尋は湯婆婆との契約の際、「萩野千尋」の「萩」の字を「获」と書き間違えていました。 そのおかげで契約は成立しておらず、千尋は現実世界に帰ってくることができたのです。 後にハクからも「湯婆婆に本当の名前を教えてはいけない」と言われた通り、本当の名前でなければあの世界に縛られることはなかったのです。 しかし、ハクは湯婆婆との契約をしっかりとしてしまったせいで、現実世界に帰ってくることはありませんでした。 普通の人より少し遠くを見ていたり、人の内側を見ているような瞳になるように描かれているそうです。 同じような場面は、世界中の逸話にしばしば登場します。 「見るなのタブー」とも言われるこのような描写は、日本の神話やギリシャ神話、旧約聖書にもあり、身近な話としては『鶴の恩返し』などが挙げられます。 物語の結びに古来から用いられてきたそんなお約束を踏まえた上で、千尋に「振り向かないで前を見て進め」とエールが送られているのでしょう。 「行き」のトンネルと「帰り」のトンネルが違うのはなぜ? 荻野一家はトンネルをくぐって神々の世界に足を踏み入れましたが、現実世界に帰って来たとき、トンネルは行きとデザインが異なっていました。 これには、「神々の世界には現実世界と別の時間が流れており、現実世界のトンネルが経年劣化した」という解釈もあります。 しかし、冒頭に建築関係の仕事をしている千尋の父が、トンネルは「モルタル製」であることに触れていますから、帰りのトンネルが石造りになっていることを考えるとその線は薄いのではないでしょうか。 最初から、行きのトンネルには神々の世界に導くための魔法がかかっており、もともと例のトンネルは石造りだったと考えた方が良さそうです。 ユニークな名前が並んでいます。 リンさんの横には「コイ」「ふな」「トロ」…魚の姿をしているのでしょうか。。。 そのほかにも「馬」「へそ」など気になる名前がたくさんあります。 — スタンリー@金曜ロードSHOW! とはいえ、作品の中では風俗のモチーフとして湯女が用いられたわけではありません。 宮崎駿は過去にエンタメ雑誌「プレミア」で、「"あれは日本そのものです。 (中略)みんな千尋が暮らす湯屋の従業員部屋のような、ああいうものだったんですよ。 日本は少し前までああいう感じだったんです。 "」と語っており、風俗産業の表出というわけではなく、日本の労働環境のモデル化という面があるようです。 宮崎駿監督は最後のシーンについて次のように語っています。 「この物語は、何か思いのほか切ない話です。 特に終わり方が。 しかしどの情報も、肝心となるエンディングの内容はストーリー中の様々な場面をつぎはぎにくっつけたような印象を受け、支離滅裂です。 謎めいた展開が魅力であり、国内では他に類を見ないほどの人気作品ですから、「そういえばそんなシーンあったかも」と「幻のエンディング」の存在が本当であるかのように噂が広まってしまったのだと思われます。 これに関しては過去にネットメディアがジブリと東宝に取材をしており、言質を得ていますので、やはり「幻のエンディング」は存在しないようです。 最後の豚の集団に両親がいないと気づいた理由 物語の終盤、湯婆婆が千尋に課したテスト。 それは豚の集団から、豚になってしまった父母を当てるという難題でした。 そこで千尋はその場に父母がいない、と確信を持って湯婆婆に伝えたことで、元の世界へと戻ることを許されます。 なぜ千尋は答えを出せたのか?これについては様々な考察がなされていますが、宮崎監督も明言していません。 ただひとつ言えるのは、物語を通して千尋が大きく成長し、ある種の洗脳(魔法)が解けた状態になったということ。 宮崎監督も「なぜわかるか、でもわかるのが人生ですよ。 それしかないんですよ。 」と答えたそう。 映画の中での経験が、千尋にとって人生を生き抜く確実な力になったのです。 具体的な考察、説明は野暮なのかもしれませんね。 『いつも何度でも』は映画制作前に作られた 主題歌『いつも何度でも』の優しい歌詞は、本作の不思議な世界観と少女の成長物語に寄り添っているように感じられますが、実はこの曲は映画制作前に完成していました。 というのも、前作『もののけ姫』に感銘を受けた木村弓さんが宮崎監督に自らのCDと一緒に手紙を送ったところ、宮崎監督も気に入り、当時企画中だった『煙突描きのリン』が形になったら連絡する、ということで作品概要を木村さんへ伝えます。 そこから着想を得て作られたのが「いつも何度でも」なのです。 しかし、ある理由がありボツになってしまった『煙突描きのリン』。 曲もお蔵入りしかけましたが、当初『千と千尋の神隠し』の主題歌になる予定だった『あの日の川へ』の作詞が難航し、再度監督が『いつも何度でも』を聴き直したところ、歌詞が映画と合致していることに気が付いたそう。 そして主題歌に起用されたという不思議な繋がりのある曲だったのです。 幻の先品「煙突描きのリン」 先述した『煙突描きのリン』は、1998年6月から企画が進められていました。 物語としては、大地震に見舞われた東京を舞台に、銭湯の煙突に絵を描く18歳の学生・リンが、東京を影で支配する集団と対峙し、戦うというもの。 ですがその制作中、鈴木プロデューサーは鑑賞した『踊る大捜査線 THE MOVIE』で感じた「リアルな若者の気持ち」に衝撃を受けます。 そして、その気持ちを宮崎監督に伝えます。 若者とは言えない自分たちが、本当に若者の気持ちを表現することができるのか疑問に思ったというわけです。 結果監督も納得し、この作品が日の目を見る日はありませんでした。 その後、千尋と同年代の子どもたちに向けた『千と千尋の神隠し』を手掛けるのですから、制作側の心境の変化もうかがえます。 最後に 『千と千尋の神隠し』に関する噂や謎、作品に込められたメッセージやテーマについて考察しました。 公式の見解が出揃っているわけではないので、一概に言えることではありませんが、これほど考察が深まるのはジブリ作品の特徴であり、醍醐味といえるでしょう。 スポンサーリンク.

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●「千尋」の作品世界を考察する

千 と 千尋 考察

このコーナーでは、「千尋」の世界観をテーマごとに読み解いていきます。 冒険物語といえば、武器を振り回したり超能力の力比べをしたりするイメージが強いが、「千尋」にはそのようなシーンは登場しない。 また、正邪の対決が主題という訳でもないから、誰かが絶対的な善人として描かれることがなければ誰かが絶対的な悪人として描かれることもない。 まして、正義の味方が武器や超能力を使って悪者を倒すような物語ではないという。 舞台は、日本に棲んでいる様々な神様がやってくる不思議な町。 主人公の千尋は10歳の普通の女の子で、特別な能力がある訳もなければ才能に恵まれている訳でもない。 千尋は、ある日突然不思議な町に投げ込まれ、湯屋という神様のためのお風呂屋さんで働き始める。 そこで修業し、友愛と献身を学び、積み重なっていく経験の全てが、千尋にとって冒険そのものであり、その中から「生きる力」が引き出されていく。 この「生きる力」というものは、人間なら誰でも潜在的に持っている力であり、 普通の女の子である千尋が自ら「生きる力」を引き出していくからこそ、普通の10歳の女の子のための冒険物語になり得るのであるという。 世の中というものは善人も悪人もみな混じり合って存在しており、これを峻別することは出来ない、と宮崎氏は指摘する。 善人だけの社会とか、悪人だけの社会というのは存在しない。 もちろん、一人の人間の中にも善人的なるものと悪人的なるものが共存しており、完全な善人とか完全な悪人というふうな割り切り方は出来ない。 その代表ともいうべき存在が湯婆婆という湯屋を支配する魔女であり、一見悪人のように見えるが悪人と言い切れる訳ではなく、厳格なように見えて甘い一面も垣間見せる。 同じように、湯屋で働く者たちの誰が善人であり誰が悪人であるというふうな分け方もしない。 「今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに浸食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すこと」がこの映画の主題であるという。 すなわち、 湯屋はある意味において「社会の縮図」であり、湯婆婆は「人間というものの見本」なのである。 さて、現代日本の子ども達は「生きる力」が衰えているのではないか、と宮崎監督は考えている。 子供だけで自由に振る舞える空間が小さくなり、大人達によって囲われ、安全に守られ、危険から遠ざけられていると、生きることがうすぼんやりにしか感じられなくなって、「生きる力」そのものが弱くなってしまうと言うのである。 千尋は、まさにそのような子供の象徴として登場する。 だが、子供というものは、本来「生きる力」の固まりである。 一家で外国に引っ越したときに現地の言葉を最も早く習得するのは常に子供であることが示すように、子供はどんな環境にでも速やかに適応できる柔軟さを持っている。 もちろん、千尋もそういう能力を持っているはずなのだが、今の日本の豊かすぎる環境の中では「生きる力」を発揮する機会もなく、退化するに任されている。 けれども、もし千尋のような子供が、突然働かなければ生きていけないような環境に放り込まれたらどうなるだろうか、と宮崎監督は考えた。 退化した「生きる力」は再び甦ることはないのだろうか? 千尋は、突然突然不思議な街に放り出され、両親がブタにされてしまったので自分ひとりの力で生きていくしかなくなる。 この世界で生きていくことは、すなわち働くことである。 千尋は湯屋で働き場所を得て懸命に働いていく。 ある時は感性を研ぎ澄ませ、ある時は全身を動員して働く。 五感を駆使し、知恵をひねり出す。 そして目覚しい判断力と行動力が発揮され問題を解決していく。 このように、多くの苦労や困難を盛り越えていくうちに、本人も気づかなかった忍耐力が湧き出して、千尋の中で眠っていた「生きる力」が呼び覚まされていく。 宮崎監督は、その過程を余すことなく描ききることで、子どもが本来持っている「生きる力」の可能性を表現しようとしたのかもしれない。 さて、「言葉」というのもこの作品における重要なキーワードの一つである。 千尋の迷い込んだ世界では、「言葉」を発することはとり返しのつかない重さを持っているという。 それは、あたかも言葉の重みがどんどん失われていく現実の世界の裏返しのようである。 力のない空虚な言葉が無意味にあふれているだけの世の中は、子どもの未来に良い影響を与えない。 だから、宮崎監督は「言葉は力であることは今も真実である」と考え、作品を通じて「言葉」の持つ重みについても深く訴えかけようとする。 「千尋」に登場する神様は宮崎監督の創作ではあるが、それらは日本の伝統的文化が色濃く反映されている。 国際化時代が叫ばれて久しく、外国の文化や伝統を学ぶ必要性が叫ばれている。 だが、本当に大事なことは、まず日本の文化や伝統を学ぶことである。 自国の文化や伝統を理解せずして、外国の文化や伝統を理解することなど出来ない。 このことを、宮崎監督は「ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう」と表現する。 よって立つ場所を持たなければ、現在の自分自身はもちろん、将来像も描けないからだ。 まず自分の足元を固めること。 それなくして自分が将来に何をしたいかという希望も見えてこないのだ。 10歳の女の子の「生きる力」を信じ、10歳の女の子が「本当の自分の願いに出会っていく」ことを信じる。 宮崎監督は、そのサポートが出来るような作品を作ろうとしたのかもしれない。 そこは、人間社会のすぐ隣にありながら地図に載っている訳でもなく、亜空間というべき別世界である。 その世界へ行く方法は全くのナゾであり、自由に往来することもままならない。 そもそも、その世界の存在を知っている人もほとんどいない。 千尋一家は、なぜ「不思議の町」に迷い込んでしまったのだろうか? その理由について、設定資料等で詳しく説明されているのでなければ推定するほかない。 ここでは、説明がないのを逆手にとって大胆な仮説を考えてみよう。 結論を先に書けば、 千尋一家全員の投げやりな態度が「不思議の町」への扉を開いてしまったのではないかと想像される。 「投げやりな態度」というキーワードは、なぜ千尋の両親がお店の食事を無断で食べ始めたかについて考えていくことから浮かび上がらせることが出来る。 不思議の街に迷い込んだ千尋の両親は、もの珍しさにつられて足を踏み入れていった。 嫌がる千尋が「ねえ、戻ろうよ!」と叫んでも、全くお構いなしであった。 そして、無人の街を探検した挙げ句、店頭に置かれていた食事に手をつけ、街の掟を破ったかどでブタの姿にさせられてしまう。 千尋の両親が街へ入り込んでいった理由については、「両親は高度成長期に育ったから好奇心が旺盛であり、何事に対しても貪欲だから。 」というふうな説明がされている。 まあ、その説明は分からないでもない。 しかし、お店に置かれている食事を断りなく勝手に食べ始めた行動まで「好奇心が旺盛」という言葉で説明するには、いくら何でも無理がある。 もし、そのような説明で片づけられてしまったとしたら、「高度成長期に育った世代は人様の食べ物でも平気で手をつける非常識な世代である」ということになってしまい、世の中の30代はたちまち怒り出すだろう。 では、なぜ千尋の両親は無断でお店の食事に手をつけてしまったのだろうか? 想像の域は出ないが、両親はリストラによる引っ越しで投げやりに近い状態になっていたから、後先考えずに食事をむさぼり始めたのではないだろうか。 別に投げやりの原因がリストラでなくても良いのだが、とにかく何らかの理由で投げやり状態になっていなければ、お店の食べ物を勝手にむさぼる非常識な行動に出る理由を合理的に説明することは難しい。 もし、あとで店員に見つかって怒られたとしても、自分はサイフもカードも持っているんだから怖いものなどないぞ、という訳である。 (実際には、そこはルールの違う世界であって、勝手に神様の食べ物を食べた罰としてブタにさせられてしまうのだが・・・。 ) 父・明夫の顔つきは見るからに体育会系で、典型的な上昇志向・中央志向の相が出ており、どこからどう見ても田舎で気楽な生活を楽しみたいというような顔つきではない。 おそらく、大学ではラグビー部あたりにいたのだろう。 そして、体育会系の人脈を頼りに一流企業へ就職し、バリバリの営業マンとして働いていたのかもしれない。 一方、母・悠子は知的でクールな女性であり、一方で打算づくで計算高い相が出ている。 結婚相手を選ぶ時も、体格が良く、羽振りも良くて、なおかつ将来出世しそうな勢いのある明夫を選んだのものと思われる。 悠子の結婚年齢は平均初婚年齢よりも若いが、これは早くから明夫に目を付けてキープしていたからであろう。 当然、将来は重役夫人あたりに収まって、リッチなアーバンライフをエンジョイしようと目論んでいたのかもしれない。 だとすれば、田舎に引っ越して都落ちしてしまうことは、夫婦にとって面白かろうはずはない。 まして、リストラに遭った挙げ句の都落ちならなおさらである。 悠子は知的でクールということになっているので、好奇心から「不思議の町」に入り込むことはあったとしても、明夫が勝手に食事に手を着けようとすれば「勝手に食べたりしたらダメよ」と言って制止する分別くらいはあるはずだ。 ところが、制止するどころか明夫と一緒になってむさぼり始めた。 やはり、悠子も投げやり状態であり、二人とも後先も何も考えず、もうどうなってのいいという位にまで投げやり状態になっていたのではないだろうか。 引っ越しの日、明夫は楽天的な性格ゆえに表情こそ明るくハンドルを握っていたが、心の中では深い挫折感に苛まれていたのかもしれない。 「俺はもう出世街道を外れてしまったよ。 トホホ。 」などと。 悠子の方も「まさか、この人がリストラされてしまうなんて思いもよらなかったわ。 本当にこの人を選んで良かったのかしら。 おかげで私の人生もメチャメチャだわ。 」などと考えながら外の景色を眺めていたのかもしれない。 千尋は千尋で、引っ越しそのものがかったるい。 これまで苦労して作り上げてきた友達関係がチャラになってしまったので、また一から友達を作らねばならない気苦労を想像してか、鬱な様子が表情にまで出ていた。 このように、 あくまでも想像ではあるが、一家全員が一致して人生を投げやりに感じた瞬間、その「気」が空間を歪ませ、「不思議の町」へ迷い込む扉が開かれてしまったのかもしれない。 「不思議の町」への扉が開かれるのは、投げやりになってしまった人の「気」によるものなのかどうかは分からない。 だが、「不思議の町」は、投げやりになってしまった人々に「生きる力」を呼び覚ますためのチャンスを与えてくれる場所という見方も出来る。 千尋は「不思議の町」で仕事を得て懸命に働き、「生きる力」を回復していった。 しかし、そこで投げやりになったままでは仕事を得ることもないから消滅させられてしまうか動物の姿に変えさせられてしまうしかない。 このような見方が成り立つとすれば、 「不思議の町」とは、人間の「生きる力」を吸い取りもすれば呼び覚ましもする、「もののけ姫」のシシ神のような存在であるかもしれない。 もっとも、ここで記した説はあくまでも一つの見方を提示しただけに過ぎず、どのような原因・タイミングで「不思議の町」に入っていったかのかのパターンは、数多く考えられると思われる。 なぜなら、そこは日本の各地に棲んでいる八百万の神様の世界であり、特に湯屋は神様の疲れをいやす世界であるからだ。 だが、もしそこが本当に人間の立ち入ってはいけない世界であれば、人間は入った瞬間に消されるか動物にされてしまうはずである。 だが、人間もそこで仕事を持てば生きていくことが出来る。 湯婆婆の下においては、名前を奪われること=人間界の者ではなくなることも条件に入っているようであるが、だからといって心の中まで支配されてしまう訳でもない。 つまり、「不思議の町」にあっても、人間が人間として存在することが許されているのだ。 このことから、「不思議の町」は少なくとも人間や人間の世界と全く無縁の世界ではないであろうことが分かる。 そればかりか、湯婆婆が人間のある部分を代表しているように、「不思議の町」は人間の世界の鏡のような存在であるといえると考えられなくもない。 結局のところ、「不思議の町」とはどのような意味をもった存在なのであろうか? この部分についても、設定資料等で詳しく説明されている訳ではないので推定するほかない。 またしても仮説の提示にとどまるのであるが、ひとことで言えば 「不思議の町」は人間の世界と神々の世界とのズレによって生み出され、発展してきたのではないだろうか。 人間の世界と神々の世界のズレがどのように発生し拡大していったかを考えると、下の図のような模式図を描くことが出来ると思う。 古来より、日本に住む人々は自然界に存在するありとあらゆるものには神が宿ると考え、八百万の神の存在を信じていた。 自然の要素は、すなわち神の分身であるとも考えてきた。 日本人なら、あの山の中に山の神が鎮っているのだと言われれば、ほとんど抵抗なく同意することが出来る。 この森の中には森の神が鎮っているのだと言われても、あるいはこの樹木の中には樹の神が鎮っているのだと言われても同様である。 日本人は、自然の恵みを神の恵みと考え、八百万の神々と共存しながら暮らしていた。 私達にとって、神とはかくも身近な存在であった。 1 つまり、日本とは人間が住む世界と神々が棲む世界が共有されている国であったと言うことが出来る。 伝統的な日本の社会において、人間の世界と神々の世界は対立するものでなければ並列するものでもなく、そのまま重なり合って渾然一体となっていた。 山には山の神、森には森の神が宿り、人々は神々の恵みに感謝しながら生活していた。 神々は、人々の信仰によって支えられていたと言うことも出来る。 2 さて、 日本の近代化が始まると、人間の世界と神々の世界との重なりにズレが生じ始めた。 すなわち、人間だけの世界の出現である。 それは、神様の入れない領域の誕生を意味するものであった。 近代文明は、あらゆるものに神々が宿るという信仰を衰えさせ、したがって神々の宿らないモノを生み出していったからである。 神々の宿れない世界は、神々にとって仕事がないことである。 だから、仮に神様が立ち入ったとしても、仕事がないために消滅するしかないであろう。 同時に、ズレの反対側には人間が立ち入れない神々だけの世界というものも出現することになった。 一方に神々を必要としない領域が生まれたのであるから、もう一方に人間を必要としない領域が生まれるのは当然の帰結である。 不思議な町や湯屋は、このようにして人間の立ち入れない世界となっていった。 仮に人間が立ち入ったとしても、そこで仕事を得ることがなければ消滅するかブタの姿に変えられてしまうしかないであろう。 近代化の進行は、同時に西欧の文化や技術を輸入することでもあり、人間の世界にも神々の世界にも影響を及ぼすことになった。 西欧の神様や魔術・魔法も伝えられ、日本の神々と同居するようになっていった。 近代化がさらに進んでズレが拡大すると、人間だけの世界=神様の入る余地のない領域がますます発達することとなった。 昔の人々は、かまどには神様が宿っていると考えたものだが、現在、マイコン内蔵の電子炊飯器に神様が宿っていると考える人はいない。 同じように、パソコンに神様が宿っていると信じる人はほとんどいなし、携帯電話に神様が宿っていると信じる人もほとんどいない。 第一、いまどきのパソコンや携帯電話は使い捨ての消耗品同然であり、神様を宿らせる余裕さえない。 人間だけの世界の拡大と同時に、 バランスをとるために神々だけの世界も発達することになった。 「不思議の町」も軒先を連ねて市街地が発達し、湯屋も要塞のごとく大規模化していたが、人間世界の発達と表裏一体をなすものだったのであろう。 物語の後半に出てきた銭婆(ぜにーば)の家は、日本古来というよりも西欧の魔女の家という造りであったが、これは西欧の影響を受けた結果であろうと思われる。 日本はもともと多神教の国であり、西欧の神様を受け入れるのは容易であったし、魔術や魔法も抵抗なく受け入れられている。 よて、神々の世界における西欧文化の同居も問題ないのであろう。 もしかしたら、湯婆婆や銭婆は西欧の出身で、日本に居着いているのかもしれない。 そして、日本的な領域と西欧的な領域の間は、鉄道で結ばれているという訳である。 さて、千尋が迷い込んだ「不思議の町」は、本来は人間の入れない領域にあった。 だが、そこで仕事を得ることが出来れば人間として存在することが出来た。 ということは、これと全く逆のことも起きているだろう。 本来神様の立ち入れない領域にあっても、例えば「パソコンの神様」「携帯電話の神様」を信じる人がいれば、すなわち"仕事"を得ることが出来た神様は、そこで神様として存在することが出来るに違いない。 ---------- IT革命が進行し、高度情報化社会が進展していけばズレがさらに拡大し、「不思議の町」も発展を続けていくかもしれない。 だが、このまま永久に発展し続けていくのだろうか?究極的には、人間の世界と神々の世界は完全に分離してしまうのだろうか? しかし、どんなに近代化が進んでも、日本に住む人々の心の中から神々が完全にいなくなってしまうことはないだろうと思われる。 人間の世界と神々の世界が完全に分離してしまうこともないだろう。 なにしろ、この国では原子力発電所やロケットの発射場など、およそ神様とは縁のない施設を作る時でさえ、必ず地鎮祭を催してその土地に棲んでおられる神様を祀る習慣を大切に守っているからだ。 インターネット上でもおみくじや占いが大人気を博しているのも、新たなる神様の"働き場所"が生まれつつあることを予感させる。 将来は、パソコンや携帯電話にだって神様が宿っていると考える人が増えていくかもしれない。 このように考えてみると、 日本は依然として人間と神々が共存しており、将来もそうあり続けるのではないだろうか。 やはり、日本は八百万の神々とともにある国なのだ。 1 例えば、その年に収穫されたコメを神に捧げることいよって自然の恵みを感謝する新嘗祭は、人間が神とともにコメを親しく食する祭儀でもある。 これは、私達が神と共に暮らしていることを確認する祭儀でもあった。 2 神々は人々の信仰によって支えられているのであるから、人が信仰しなくなった神は死に絶える。 「もののけ姫」におけるシシ神も、人々がそれを信じていればこそ生きることの出来た神であった。 人々がシシ神を信仰しなくなれば、わざわざ神殺しに行かなくてもシシ神はその時点で実質的に死んだであろう。 同じように、人々が信仰しなくなったイロリの神、カマドの神、井戸の神も現在では絶滅同然になっている。 参考文献 高橋勝『子どもの自己形成空間』川島書店,1992 厚生省大臣官房統計情報部編『人口動態統計』厚生省,1992 深谷昌志『無気力化する子どもたち』日本放送出版協会,1990 恩賜財団母子愛育会編『日本子ども資料年鑑』中央出版,1998 朝日新聞連載コラム「10年ほど生きてます:2000年のコドモたち」朝日新聞,2000.

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