北条 政子。 偉人 北条政子 名言集|心の常備薬

北条政子とは?演説や夫、墓・家系図・名言や悪女などの性格について解説!

北条 政子

Sponsored Links 北条政子は、「尼将軍」とも呼ばれ、鎌倉幕府の実権を握っていたと言われる人物です。 気性が強く、嫉妬深い性格だったと考えられていますが、源頼朝とのなれ初め、2人の夫婦仲はどうだったのでしょうか? 今回は、北条政子と源頼朝の関係について、解説します。 2人の結婚までのなれ初めは 北条政子は、伊豆の豪族・北条時政の長女として生まれます。 父・時政は、平治の乱で敗れ、同地に流刑人としてやってきた源頼朝の監視役を務めていました。 しかし、時政が不在の間に、政子は源頼朝と恋仲になってしまいます。 その頃は、平家全盛の時代です。 実は、頼朝は政子以外にも、恋人がいました。 その娘との間に子をもうけていたのですが、その一族は平家を恐れ、生まれた子供を殺しています。 北条時政も政子と源頼朝の交際を反対し、政子を平氏に縁がある武将と結婚させようとします。 政子は、その政略結婚を知り、屋敷を抜け出し、山を越えて源頼朝の元へ走ったと言われています。 ついに、1177年に源頼朝と北条政子は結婚し、結婚の翌年には、長女・大姫が生まれました。 その頃になり、ようやく時政も2人の結婚を認めました。 Sponsored Links 嫉妬深かった北条政子、その理由とは? 1180年に、天皇の第三皇子である以仁王が全国の源氏に対し、平氏打倒の命令を出し、源頼朝をはじめとする源氏が各地で挙兵します。 この戦いの間に、源頼朝は武将・新田義重の娘を妻に迎えようとしますが、新田義重が政子の性格を恐れ、結婚は実現しませんでした。 同じころ、源頼朝は亀の前という女性を寵愛するようになります。 長男・頼家を妊娠していた北条政子はこれを知ると激怒し、亀の前が住んでいた家を襲撃させ、壊してしまいます。 当時の貴族や武家の婚姻関係は、一夫多妻が当たり前で、本妻以外にも多くの妾を持ち、子供を産ませて一族を増やすことが当然のこととされていました。 北条政子の父・時政も複数の妻を持ち、政子には腹違いの弟妹が多くいます。 ですので、政子のこの嫉妬深さは特異にも感じられます。 政子の身分は、源頼朝の正室としては低いものでした。 そのため、自身の地位を守るために他の女性を排除しようとしたいたのではないかと考えられています。 By: 源頼朝が征夷大将軍になるまでの間の夫婦仲は 1186年、対立する弟・義経の妾である静御前が捕らえられ、鎌倉へと送られてきました。 静御前は、鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露した際に、頼朝の目の前で義経を慕う歌を詠います。 頼朝は激高しますが、政子は 「私も流刑人だったあなた(頼朝)との結婚を周囲に反対され、家出同然であなたの元に走りました。 戦いの間、あなたと連絡がとれず不安な日々をすごしたこともあります。 ですから、今の静御前の気持ちはよくわかります。 私であっても、同じような歌を謡うでしょう」 と諌めたといわれます。 また、1189年、源頼朝が奥州征伐のため出陣した際には、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦の必勝祈願をしています。 源頼朝は、気が強く聡明な北条政子に頭が上がりませんでしたが、政子は頼朝のことを心から愛していたと考えられます。 源頼朝死後、政子はどうしたのか? 鎌倉幕府を開いて間もない1199年、源頼朝は落馬が元で急死します。 政子は頼朝の死後、後を追うことも考えましたが「子供たちを見捨てることはできなかった」と『承久記』に残されています。 髪を切り尼となった政子は、家督を継いだ、まだ17歳の長男・頼家を支えます。 その後、長男・頼家、次男・実朝は殺されてしまいますが、家来たちをまとめて、源頼朝が作った鎌倉幕府存続の為に尽力します。 1221年には、 後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権を取り戻そうと承久の乱を起こしました。 朝廷の敵とされ、戸惑う武将を前に北条政子は、以下のように演説します。 「皆さん、よく聞いてください。 頼朝様が平氏を滅ぼし、この地に幕府を開いてから、あなた方の役職も収入もずいぶん良くなり、幸せな生活が送れるようになりました。 それもこれも、頼朝様のお蔭です。 その恩は山よりも高く、海よりも深いはずです。 しかし、その恩を忘れ、朝廷側につくのではあれば、まずは私を殺し、この鎌倉を焼きつくてからにしてください。 それから京都へと行きなさい!」 これを聞いた武将たちは、朝廷軍と戦う決意をします。 幕府軍の結束は固く、最終的には19万騎にもなります。 それ対し、朝廷側の軍勢はおよそ2万数千騎しか集まらず、承久の乱は幕府側の圧勝で終わり、鎌倉幕府の力は、更に強固なものとなりました。 幕府の体制が軌道にのった頃、政子は病気により68歳で亡くなります。 1225年のことです。 鎌倉幕府は、それから100年以上、1333年まで続きます。

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北条政子とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

北条 政子

政子の兄弟には 宗時・・時房・阿波局・時子がいる。 在庁官人という職についていた父・時政は流人の源頼朝の監視役をしていたが、時政が京にいる間に政子と頼朝は恋仲になる。 二人の婚姻に時政は怒り大反対した。 平家一門に知られると大変なことになるので、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようと画策するも、政子は屋敷を逃げ出し頼朝の元に走ったという創作話もある。 政子は自分で「 暗夜をさまよい雨をしのいであなたの所に参りました」と話している。 大反対していた時政も二人の婚姻を許し、頼朝の後援者となりまもなく政子は長女・ 大姫を産む。 その後、危機が迫ると北条氏と共に挙兵して、目代の山木兼隆を討ち取るも続くで敗けてしまう。 石橋山の戦いで政子の長兄・宗時が討死にし、頼朝は時政や義時と共に逃げ、政子は伊豆にとどまり頼朝らを心配する日々を送る。 頼朝は安房国(現在の千葉県南部)に逃れて再び挙兵すると、平家一門に不満のある東国の武士たちは頼朝の元に集まり数万の兵が集まる。 大軍となった頼朝は源氏ゆかりの地、鎌倉に入ると政子も鎌倉に移り住む。 頼朝はを勝利して関東を制圧して東国の主となり、 鎌倉殿と呼ばれ政子は 御台所と呼ばれる。 政子の嫉妬 養和2年(1182年)政子は懐妊して8月に男子(後の)を出産するが、頼朝は妊娠中に「 亀の前」という女性を寵愛する。 これを聞いた政子は嫉妬にかられて激怒し、11月に 牧宗親に命じて亀の前が住んでいた 伏見広綱の家を打ち壊し、亀の前は逃げ出した。 それを知った頼朝は怒り、牧宗親の髻を切り落とすという恥辱を与えた。 怒りのおさまらない政子は伏見広綱を遠江国へ流罪とした。 当時は一夫多妻が当然で、政子の嫉妬深さは異例だと言える。 頼朝はこの後、政子を恐れて半ば隠れるように女性の元へと通うようになる。 頼朝の父・ 源義朝も多数の妾がおり、京で育った源氏のプリンスである頼朝にとっては多くの女の家に通うのは当たり前だった。 政子は夫のそんな行動を許さなかったのは嫉妬心だけではなく、伊豆の小さな豪族である北条氏の格は頼朝の正室として低かったために、安泰ではないと考えていたからだ。 実際に頼朝は同年7月に頼朝の兄・ の未亡人の 祥寿姫を妻に迎えようとしたことがあったが実現しなかった。 政子の怒りを恐れた祥寿姫の父・新田義重が他の家に嫁がせたのである。 この事件によって、政子には 気性の激しいイメージが持たれるようになった。 夫が征夷大将軍 頼朝は弟の 源範頼・義経を派遣して 木曽義仲を滅ぼし、元暦2年(1185年) で平氏を滅ぼした。 文治元年(1185年)頼朝は 鎌倉幕府を開き、諸国に 守護・地頭を置いた。 政子は文治2年(1186年)に次女・ 三幡を産む。 政子の妊娠中に頼朝は 大進局という妾の元に通い男子を授かるが、政子から隠すため出産の儀式は行なわれなかった。 大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、人目を避けながら子供を育てた。 建久3年(1192年)頼朝は 征夷大将軍に任じられ、数日後に政子は次男・ 千幡(後の)を産んだ。 建久4年(1193年)頼朝は大規模な巻狩りを行い嫡男・頼家が鹿を射ると喜び政子に知らせるも、政子は「 武家の跡取りが鹿を獲ったくらいで騒ぐことはない」と使者を追い返すという気の強い逸話がある。 政子の長女・ 大姫はと婚約が成立していたが、義高が殺されたことで心の病になった。 心配した頼朝と政子は、公家の一条高能との縁談を勧めるも大姫は拒む。 次に後鳥羽天皇の元に入れようとするも、大姫は重い病になって20歳で亡くなってしまう。 次女・ 三幡を後鳥羽天皇に嫁がせようとするも失敗に終わる。 その後、頼朝は上洛を計画したが建久10年(1199年)1月13日、落馬が原因で急死した。 53歳だった。 頼家による独裁に 北条時政・義時、大江広元、梶原景時、比企能員ら、老臣たち13人の合議制が定められる。 頼家と老臣たちの対立は続き、頼家が重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされるという事件が起きる。 頼家は遊興にふけり特に蹴鞠を好み、政子は蹴鞠を諌めるも頼家は聞き入れなかった。 頼家は長子・を産んだ娘の父・を重用した。 比企氏の台頭は北条氏にとっては脅威となった。 建仁3年(1203年)頼家は病となり危篤状態になると、政子と父・時政は一幡と頼家の弟ので日本を分割することを決める。 不満に思った比企能員は病床の頼家に訴えると、頼家は怒り北条氏討伐を命じる。 政子がこの話を父、時政に伝えると、時政は能員を謀殺し北条氏は大群を率いて比企氏を滅ぼしてしまった。 この時に頼家の息子・一幡も殺されてしまっている。 頼家は危篤から回復後、この話を聞いて激怒し時政討伐を命じるが、主導権は完全に北条氏に握られ、頼家は政子の命で出家させられ将軍職を奪われる。 その後、頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、翌年に死去した。 しかし、時政は元久2年(1205年)実朝を廃してを将軍に擁立しようと画策する。 政子と政子の弟のは陰謀を阻止して父・時政を伊豆に追放し、義時が執権となった。 実朝は公家政権との融和を図り、後鳥羽上皇も実朝を優遇して官位を与える。 しかし、公家との融和策は次第に御家人たちの利益の対立を生み、御家人たちの実朝への不満が増していく。 実朝の官位が更に上がり右大臣になると、義時やは実朝に「 朝廷に取り込まれて御家人と離れないように」と進言するも実朝は従わなかった。 源実朝の暗殺 建保7年(1219年)右大臣拝賀式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は、亡き頼家の子で甥・に暗殺されてしまう。 実朝の葬儀が終わると政子は鎌倉殿の任務を代行して、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願うも上皇はそれを拒否する。 そのため義時の弟・は摂関家から源頼朝の同母妹の曾孫にあたる2歳の 三寅()を連れて鎌倉に戻る。 三寅の後見には政子がつき、将軍の代行をすることになったので「 尼将軍」と呼ばれることとなる。 () 上皇は義時追討の院宣を諸国の守護・地頭に下し、鎌倉の御家人たちは大きく動揺する。 上皇からの院宣・天皇からの宣旨は天皇からの公式な命令であり、過去に宣旨の対象にされた者は勝ったことが一度もないという影響力を持つ。 その対象に弟・義時がなったことで政子は御家人たちを集めて、自分の胸の内を最期の詞として演説した。 (に代弁させたという説もある) 「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。 秀康(藤原秀康)・胤義(三浦胤義)を討って三代将軍の遺跡を全うせよ。 ただし院に参じたいものは直ちに申し出て参じるがよい。 」 これによって鎌倉に集まった御家人の動揺は収まった。 幕府軍の兵は19万騎の大軍となり各地で勝利して、京を占領する後鳥羽上皇は義時追放の院宣を取り下げて隠岐に流された。 伊賀氏の変 貞応3年(1224年)義時が急死する。 政子は義時の長男・に執権を任そうとするも、義時の後室の 伊賀の方が実子のの執権擁立を画策する。 伊賀の方は有力御家人のと結ぼうとするが、政子は義村の家を訪ねて泰時が後継者になるべきと説き、義村は泰時への忠誠を誓う。 騒然とする鎌倉だが政子はこれを鎮め、伊賀の方を伊豆に追放した。 泰時は義時の遺領配分を政子と相談して、弟たちのために自分の配分を少なくする案を出して政子を感心させたという。 その後、政子は嘉禄元年(1225年)7月11日に 69歳で死去した。

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北条氏

北条 政子

北条政子の生い立ち 北条政子は保元2年(1157) 北条時政の長女として誕生しました。 伊豆国の豪族であった父・北条時政は平治の乱で伊豆に配流された源頼朝の監視役を務めていました。 源頼朝との結婚 源頼朝と北条政子は源頼朝の監視役であった父・北条時政の不在中に恋仲になったとされています。 治承元年(1177)頃に2人は婚姻したと推定されていますが、当時は平氏全盛の時代であったため、父・北条時政は源頼朝との結婚に大反対しました。 しかし、 最終的には北条政子と源頼朝の結婚は認められ、長女・大姫を授かります。 その後、夫・源頼朝は東国の武士たちを味方につけ後に鎌倉幕府がおかれた鎌倉に北条政子を連れ向かいました。 治承4年(1180)には富士川の戦いに勝利し、東国の主となった夫・源頼朝は鎌倉殿と呼ばれ、 北条政子は御台所と呼ばれるようになります。 養和2年(1182)になると北条政子は 第二子・頼家を出産しました。 第三子誕生 建久3年(1192) 北条政子は第三子で、のちに第三代征夷大将軍となる源実朝を出産します。 建久6年(1195)になると北条政子は上洛し長女・大姫の後鳥羽天皇への入内を丹後局と協議しますが、長女・大姫は重い病気を患い建久8年(1197)に20歳の若さで亡くなってしまいました。 娘を亡くした北条政子は非常に悲しみ自身も娘の後追いをしようと考えていたとされます。 夫・源頼朝の死 夫・源頼朝は次女・三幡を入内させようとしましたが、土御門通親に阻まれ、また建久10年(1199)1月に 夫・源頼朝は落馬が原因で命を落とし入内の計画は保留となります。 しかし、次女・三幡も同年6月に病によって亡くなったため入内の話は無くなりました。 第二子・源頼家が第二代将軍となる 夫・源頼朝亡き後、第二子であった源頼家が家督を継ぎ、 北条政子は出家し尼となると尼御台と呼ばれるようになりました。 二代将軍となった源頼家は御家人や老臣たちと対立関係となります。 源頼家が安達景盛の妾を奪うといった不祥事を起こした際、北条政子はこの不祥事の騒ぎを収めるなどを行っていた記録が残されました。 源頼家は、蹴鞠を好み遊興にふけていたため、さらに御家人たちの不満は高まっていきました。 しかし、建仁3年(1203)に 源頼家が病を発症し危篤状態となると北条政子と父・北条時政は源頼家の嫡男・一幡と源頼家の弟・実朝で日本を分割させることを決断します。 このことに対し、 源頼家は激怒し北条氏討伐を命じます。 比企能員の変 こうして 北条氏討伐を命じた第二子・源頼家でしたが、一方の北条政子も父・北条時政に使者を送り源頼家の家臣・比企能員を比企能員の変で殺害しました。 病によって危篤状態であった源頼家が危篤から回復すると家臣・比企能員が討伐されたことを知り祖父にあたる北条時政の討伐を決意しました。 しかし、 この頃になると北条が実権を握っていたため、源頼家は北条政子によって権力を奪われ出家させられた後、修善寺に幽閉されることとなります。 その後、翌年の元久元年(1204)に源頼家は亡くなりました。 第四子・源実朝が第三代将軍となる 第二代将軍・源頼家の後を継いだのは北条政子の第四子・源実朝です。 この頃、北条政子の父・北条時政が初代執権に就任しており北条時政によって実権は握られていました。 父・北条時政は妻の牧の方とともに、政権を独り占めしようと企んでおり、それを知った北条政子は北条時政の館にいた源実朝を連れ戻します。 牧氏事件 元久2年(1205)父・北条時政と妻・牧の方が源実朝を廃しし、平賀朝雅を将軍として擁立させる計画を企てていました。 しかし、 この計画を北条政子は弟・北条義時とともに阻止し、父・北条時政を伊豆へと追放し弟・北条義時が執権となります。 第三代将軍・源実朝が暗殺される 第三代将軍となった源実朝は亡き兄・源頼家とは違い、その教養から公家政権との融和を図っていました。 これに対して後鳥羽上皇は源実朝を優遇していたとされています。 しかし、公家と親密な関係を築く源実朝に御家人たちは不満を募らせ建保7年(1219)に源実朝は甥の公暁に暗殺されてしまいました。 尼将軍と呼ばれる こうして 2人の娘と、2人の息子を亡くした北条政子は後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎えることを強く願いました。 しかし、後鳥羽上皇は自身の皇子を将軍にすることを拒否します。 よって皇族の将軍を迎えることができなくなったことから 弟・北条義時は摂関家の藤原頼経を次期将軍として迎え入れることとなりました。 迎えられた藤原頼経はこの時、2歳の幼児であったことから北条政子が将軍の代わりとなり、尼将軍と呼ばれることとなります。 承久の乱 承久3年(1221) 鎌倉幕府は皇権の回復を望んでいた後鳥羽上皇と対立関係となり、後鳥羽上皇が京都守護・伊賀光季を殺害したことによって承久の乱が始まります。 後鳥羽上皇が弟・北条義時の討伐を諸国の守護と地頭に命じると、鎌倉の御家人たちは後鳥羽上皇が挙兵したことを恐れ、動揺するものが多くいました。 北条政子の演説 後鳥羽上皇の挙兵に動揺する御家人たちに対し、 北条政子は「最期の詞」と称して亡き頼朝公の御恩を称え、三代にわたる将軍家の恩に報いるため、逆臣を討て。 といった演説を行いました。 この演説に胸を打たれた御家人たちは奮起します。 幕府軍の勝利 後鳥羽上皇は、幕府軍が出撃してくることを予想しておらず、幕府軍19万騎の大軍に狼狽します。 各地で、幕府軍の大軍を恐れ敗退がなされ遂に、幕府軍が京都を占領すると後鳥羽上皇は北条義時討伐の命を取り下げ降伏宣言を行いました。 よって 幕府軍の勝利となり、後白河上皇を隠岐島へ流した後、北条政子は承久の乱の戦後処理に力を注ぎます。 伊賀氏の変 貞応3年(1224)執権であった弟・北条義時が亡くなると、その嫡男・北条泰時が執権として期待されるようになります。 しかし弟・北条義時の後室であった伊賀の方は実子である北条政村の執権擁立の計画を企て有力御家人の三浦義村と手を結ぼうとしていました。 それを知った北条政子は三浦義村のもとへ向かい、三浦義村が北条政村の執権擁立の計画に加わっているのか詰問します。 この 北条政子の詰問を認めた三浦義村は北条泰時への忠誠を誓い、北条政子は執権擁立計画を企てた伊賀の方を伊豆へと追放しました。 北条政子の最期 嘉禄元年(1225) 北条政子は69歳で亡くなりました。 北条政子の墓は神奈川県鎌倉市にある寿福寺の第四子・源実朝の墓隣に建立されています。 北条政子の性格 嫉妬深い女性であった 北条政子はとても嫉妬深い女性でした。 夫・源頼朝は北条政子以外にも寵愛していた女性が数人いたとされています。 その中でも亀の前と呼ばれる女性を、北条政子が第二子・頼家の妊娠中に夫・源頼朝は非常に寵愛しており、それを知った北条政子は嫉妬心を抱き激怒します。 北条政子は牧宗親に亀の前の住んでいる伏見広綱の邸の打ち壊しを命じました。 命じられた牧宗親によって打ち壊された伏見広綱の邸からは、亀の前は逃げ出すも、この騒動を知った源頼朝に牧宗親は髻を切り落とされるといった処罰を与えられます。 その後、 北条政子は伏見広綱を遠江国へ流罪としました。 当時の貴族は、一般的に複数の妻妾を持ち、多くの子孫を残すことが当たり前とされていた時代でした。 しかし、そんな時代でありながらも北条政子は、源頼朝が複数の妻妾を許さず、そのため源頼朝は隠れて妻妾の家に通っていたとされています。 日本三大悪女の1人 北条政子は日野富子や淀殿と並ぶ日本三大悪女の1人とされています。 北条政子の嫉妬深さから夫・源頼朝と妾が接することを許さず第二子・源頼家、第三子・源実朝の暗殺によって結果的に後継者不足を招くこととなり、また女性でありながらも源氏の嫡流が途絶えると実権を握り、承久の乱で朝廷を破ると、後鳥羽上皇を流罪に追い込みました。 このようなことから、 北条政子は日本三大悪女の1人と呼ばれるようになります。 北条政子の子孫 北条政子には4人の子供がいました。 第一子の長女・大姫は病によって20歳で亡くなり第二子・源頼家は暗殺、第三子の次女・三幡が14歳で亡くなると、残されたのは第四子の源実朝でしたが源実朝も暗殺によって亡くなります。 こうして 北条政子と夫・源頼朝との間にできた子供たちは全員亡くなりました。 夫・源頼朝は大進局という妾との間に貞暁という男子が誕生していましたが、貞暁は出家してしまったので、 貞暁が亡くなったことから、源頼朝の男系男子の子孫は断絶となります。 北条政子の家系図では、父・北条時政よりも以前の系譜が曖昧であり、また北条氏の執権終了以降の系譜も明確にされていません。 名言 「故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。 秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。 ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい。 」 承久の乱の際、後鳥羽上皇が挙兵したことを恐れ、動揺する御家人たちに向けて北条政子が発した最後の詞と呼ばれる演説は、御家人たちの団結や奮起を促す演説となり、 承久の乱に勝利する原動力となった言葉でした。 最後に 北条政子は夫・源頼朝が亡くなると、強いリーダーシップを発揮し、最後の詞と呼ばれる演説は御家人たちの団結や奮起を促し承久の乱において勝利をもたらしました。 この演説によって心を動かされた御家人たちが多くいたようで、中には演説を聞き涙を流した者までいたとされています。 しかし、2人の息子が暗殺されると実家の北条家が政権を握るようになり亡き夫・源頼朝の夫人としては倫理観に欠けるとされ、また嫉妬深い性格から後に日本三大悪女の1人とされるようになりました。

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