きょう へき じゅ。 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)とは

妙法蓮華経如来寿量品第十六(みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろく) 現代語訳

きょう へき じゅ

その時に仏は、諸々の悟りを求める修行者及び一切の大衆にお告げになった。 諸々の仏法に帰依した男子よ、おまえたちは当然如来の本当の真理の言葉を信じ理解するべきだ。 再び大衆にお告げになった、おまえたちは当然如来の本当の真理の言葉を信じ理解するべきだ。 また更に再び大衆にお告げになった、おまえたちは当然如来の本当の真理の言葉を信じ理解するべきだ。 その時に悟りを求める修行者の集団は、弥勒を主だった者として、合掌して仏に向かって言った。 世尊、願わくはこれを説きたまえ。 我らは、仏の言葉を信受し奉るに違いない。 願わくはこれを説きたまえ。 その時に世尊は、諸々の悟りを求める修行者が三たび請うて止めないのを知って、彼らにお告げになった。 おまえたちは真実を聴け。 如来の秘密と超人的な能力を。 一切の世間の天人・人間・及びアシュラは、皆今の釈迦族の聖者の如来は、釈迦族の宮殿を出て、伽耶城から離れること遠くない 道場に坐って、一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得たと思っている。 しかしながら、仏法に帰依した男子よ、私は実に仏となってから今まで、無量無辺百千万億那由他劫の長い時が過ぎている。 例えば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮にある人がこすって非常にこまかい塵にして、 東方へ五百千万憶那由他阿僧祇の国を過ぎて一つの塵を投下し、 この様にして東に進んで、この非常にこまかい塵が全て無くなったとする。 諸々の仏法に帰依した男子よ、どのように思うか。 この諸々の世界を心に浮かべ考えたり計算して、その数を知る事が出来るか出来ないか。 弥勒菩薩は、悟りを求める修行者たちと共に仏に向かって言った。 世尊、この諸々の世界の数は計り知れず果てしなく、 算数によって知る事はできない。 また心の働きの及ぶ所ではない。 一切の自己の悟りのみを求める修行者や独力で悟りながら他人に説かない小乗の聖者が、煩悩に汚されていない智慧で考えても、その数の限界を心に浮かべて知る事はできない。 我らは仏道修行の過程ですでに得た境地から後戻りしない境地に達しているが、この事については達することができない。 世尊、この様な諸々の世界の数は計り知れず限りがありません。 その時に仏は、悟りを求める修行者達にお告げになった。 諸々の仏法に帰依した男子よ、今当然はっきりとおまえたちに述べるべきだ。 この諸々の世界の或いは非常に細かい塵を置いた世界も置かなかった世界も全て塵にして、その一つの塵を一劫とする。 私が仏になって以来経過した時間は、またこれよりもさらに過ぎること百千万億那由他阿僧祇劫である。 それ以来私は、常にこの娑婆世界にあって、教えを説き教え導いている。 また、他の百千万億那由他阿僧祇の国においても、生命のあるものすべてを導き利益している。 仏法に帰依した男子よ、この中間において私は燃燈仏などの事を説いた。 またその仏が、煩悩の火を消して知慧の完成した悟りの境地に入ると述べた。 (妙法蓮華経序品第一で、文殊師利法王之子が説いた過去の無量無辺、不可思議、無数、無限の時を隔てた昔の話) このようなことは全て、人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって、そう説いた。 諸々の仏法に帰依した男子よ、 もしも、生命のあるすべてのものが、私の所に来たときには、私は仏の眼によってその信仰などの生命活動や感覚の原動力の利発なことと愚鈍なことを観察する。 相手に応じて道理を言い聞かせて理解させ、あちらこちらにおいて自ら説き、違った名前、違った年齢で現われ、 またまたこの世に出現して、「仏の悟りを得た境地へ入りこの世を去るに違いない」と言い、また種々の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって深く複雑な教えを説いて、 生命のあるものすべてによく歓喜の心をおこさせた。 諸々の仏法に帰依した男子よ、如来は諸々の生命のあるものすべての中で自己の悟りを第一とする教えを願っている福徳の薄い心身に宿ったけがれの多い者を見たときは、 この人の為に「私は若くして出家し一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得た」と説いた。 しかしながら私が実に仏となって以来長く久しいことは、この通りである。 ただ人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって生命のあるものすべてを教え導いて、仏道に入らせようとしてこの様に説いた。 諸々の仏法に帰依した男子よ、如来が演説する経典は、皆、生命のあるものすべてを迷いの世界から渡してそこから脱出させるためである。 或るときは自己について説き、或るときは他者について説き、或るときは自己を表現し、 或るときは他者を表現し、或るときは自己の事柄を表現し、或るときは他の事柄を表現する。 その言葉や演説は全て真実であって虚妄ではない。 理由は何故かというと、如来はありのままに、欲界・色界・無色界の三つの世界のそのものの内面などを表す姿・形・ありさまを正しく認識するからである。 出生や死亡など無く、もしくは老化もしくは成長、またこの世での存在および滅度も無い。 実在でもなく虚無でもなく、不変でもなく多様でもない、三界に住む者が三界を見るようなことではない。 このような事を如来は明らかに見て誤りが有ることは無い。 諸々の生命のあるものすべてには、種々の悟りを開く種となる素質、種々の欲望、種々の動作、種々の思いや識別する心の働きがあるので、 彼らに諸々のよい報いを招くもとになる行為をさせようとして、多少の因縁や喩えやほめ言葉によって様々に教えを説く。 身・口・意の三つのはたらきに現れる如来としてなすべき事を、未だかつて少しの間も怠らずにきた。 この様に私が仏になって以来、非常に長い時間が過ぎた。 寿命は数えられないほど長く阿僧祇劫であり、常に存在し続けて消滅しない。 諸々の仏法に帰依した男子よ、私がもと悟りを求める修行者の道を修行して成就した寿命は、今なおいまだ尽きる事がない。 またすでに過ぎた年数の二倍ある。 さて今実に世を去るのではないが、しかしあえて宣言して「世を去るべきである」と言う。 如来は、この人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって、生命のあるものすべてを教化しようとする。 理由は何故かというと、もし仏が長い間この世に生き続けるならば、福徳の薄い人は、よい報いを招くもとになる行為を行わない。 貧しく生活に苦しみ、卑しく、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を貪り執着し、とらわれの心によって真実でないものを真実であると誤って考え、因果の道理を無視する誤った考え方の網の中に陥るであろう。 もし如来が常に存在していて入滅する事がないと見れば、 おごり高ぶって人をあなどる心を起こし、いやになり怠ける心を起こし、遭いがたいという思い、恭しく敬う心を生ずることはできない。 それ故に、如来は真実の教えに導くための仮にとる便宜的な手段によって説く。 諸々の仏が世に出られることに縁によって廻りあう事は難しいと。 理由は何故かというと、諸々の善い行いによって得る利得の薄い人は、無量百千万億劫を過ぎて、或いは仏を見る者もあり、或いは仏を見ない者もある。 この事柄の故に、私はこの言葉を言う。 「諸々の出家得度した男子よ、如来を見る事は難しい」と。 この生命のあるものすべては、この言葉を聞けば、きっとめぐり合うことは難しいという思いを生じるはずだ。 心に恋慕を懐き、渇いた者が水を切望するように仏を仰ぎ慕い、そしてよい報いを受ける原因となる行いをするようになる。 この理由により如来は、実際には滅する事はないけれども、しかし世を去ると言う。 また、仏法に帰依した男子よ、諸仏如来の教えは、すべてこのようである。 生命のあるものすべてを悟りの境地に導くためであるから、全て真実であり虚妄ではない。 例えば、良い医者のように、物事をありのままに把握し真理を見極める認識力があり聡明であって、薬の処方にすぐれ、よくいろいろな病を治す。 その人に多くの子があり、十、二十、または百人あったとする。 ある仕事の縁があって、遠くの他国に行った。 諸々の子供たちは、その後で毒薬を飲んだ。 毒薬にあてられて悶え苦しみ、地をのた打ち回った。 この時にその父が戻り家に帰って来た。 子供たちは毒を飲んで、あるいは正気を失い、あるいは失わない者もいた。 遥かにその父を見て、皆大いに歓喜し、ひざまずいて拝み問いたずねた。 よく無事に帰って来られました。 私たちは心性が愚かで一切の道理にくらいため誤って毒薬を飲んでしまいました。 願わくは治療して救って更に命を永らえさせたまえ。 父は、子供たちの苦悩する姿がこのようであるのを見て、 諸々の処方によって、良い薬草で色も香りも味も悉く具わったものを求めて、 磨り潰しまぜ合わせて、子に与え飲ませようとした。 そして、この言葉を言った。 「この優れた薬は色も香りも味も悉く具わっている。 この薬をおまえたちは飲みなさい。 すぐに苦悩は除かれ、病はなくなるであろう」と。 その諸々の子供の中で正気を失っていない者は、 この良薬の色も香りも共によいのを見てすぐにこれを飲み、病はことごとく除かれ癒えた。 その他の、正気を失った者は、その父が来たのを見て、 また歓喜し、ひざまずいて拝み問いたずねて病が治るかと問い求めたが、しかし、その薬を与えたが飲もうとはしなかった。 理由は何故かというと、毒の成分が深く入って正気を失っているために、このよい色と香りのある薬を良くない薬と思ったのである。 父はこう思った。 この子らはあわれである。 毒にあてられて、心が皆、顛倒している。 私を見て、喜んで治療して救うことを求めたけれども、この様なよい薬をあえても飲もうとしない。 私は今、仮にとる便宜的な手段によってこの薬を飲ませよう。 そして父はこう言った。 「おまえたちよく聞きなさい、私は年老いて老衰し死ぬ時がやって来た。 このよい薬を今ここに置いておく。 おまえたちはこれを飲みなさい。 治らないと心配したりする事はないのだ」と。 このように教え終わってから、また他国に行き、使を遭わして帰らせて告げた。 「おまえの父はすでに死んでしまった」と。 この時に諸々の子は父が死んだと聞いて、心は大いに憂い悩み、こう思った。 「もし父が生きていたならば我らをいつくしみ憐れんでよく救い護って下さるであろう。 今、わたしを捨てて遠く他国で亡くなられた。 自ら思い巡らすと孤独であってまた頼みとすることもできない。 」 常に悲しみの感情を心に懐いて、心がついに迷いからさめて悟り、そしてこの薬の色も香りも味もよい事を知った。 そして取ってこれを飲み、毒の病は皆癒えた。 その時に父は、子供達が悉く癒す事ができたと聞いて、ふたたび帰り来たって、すべての子らにまみえたということである。 諸々の仏法に帰依した男子よ、どう思うか。 この優れた医者の嘘の罪を説くものがいるであろうかどうであろうか。 世尊、いません。 私もまたこのようである。 生命のあるものすべてのための故に、衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働きによって世を去るだろうと言うのである。 私が虚妄の罪になると言う者はないであろう。 その時に、世尊は、重ねてこの意義を述べようとして、仏徳を賛歌して詩を説いて言われた、 私が仏になって以来 経過した諸々の劫の数は 無量百千万 億載阿僧祇である 常に教えを説いて 無数億の生命のあるものすべてを教え導いて 仏道に入らしめた それ以来計り知れないきわめて長い時間である 生命のあるものすべてを救う為に 人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって世を去るように見せた しかし真実には世を去り滅度することなく 常にここにあって教えを説いている 私は常にここに在るけれども 諸々の神通力によって 正しい理に反する生命のあるものすべてには 近くにいるとしてもしかし見えない 人々は私の滅度を見て 広く私の遺骨を供養し 悉く皆恋慕の心を懐き あこがれ慕う心を生じる 生命のあるものすべてが教えを信じて服従し 素直であってこころが柔軟になり 一心に仏を見たいと願って 自ら体も命も惜しまない その時に私と僧たちは 共に霊鷲山に現れる 私はその時に生命のあるものすべてにこう語る 「私は常にここに在って滅することはない 衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働きによって 世を去る事を示したり不滅であることを示したりする 他の国土の生命のあるものすべての中に 恭しく敬い教えを信じ喜ぶ者があれば 私はまた彼らの中において 彼らの為にこの上ない教えを説く」 おまえたちはこの事を聞かずに ただ私が世を去ると思っている 私が諸々の生命のあるものすべてを見ると 苦しみの絶えない海に沈んでいる それ故に身を現わすことなく それによって渇いた者が水を切望するように仏を仰ぎ慕う心をおこさせる その心が恋慕するとき 姿を現して教えを説く 神通力はこのようである 阿僧祇劫という数えられないほど長い間 常に霊鷲山 及びその他の諸々の場所に在る 生命のあるものすべてが世界の住劫が尽きて物の存在が許されなくなったことを見て 大いなる火に焼かれる時にも 私のこの国土は安穏であって 天人が常に満ちている 園林や諸々の堂閣は 種々の宝によって美しく飾られ 宝石の樹には花や果実が多く 生命のあるものすべての遊楽する所である 諸々の天人は天鼓を打って 常に種々の伎楽を奏で 曼陀羅華を雨のように降らして 仏と大衆に散ずる 私の浄土は火に焼かれることはない しかし生命のあるものすべては焼け尽きる 憂いや怖れ諸々の苦悩は このように悉く充満していると見る この諸々の罪の生命のあるものすべては 前世で悪事をしたことによる悪い報いの因縁によって 阿僧祇劫という長い時を過ぎても 仏と法と僧の三宝の名を聞かない 諸々のあらゆる現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を修めて 柔和であり素直である者は すなわち皆わが身が ここにあって教えを説いているのを見る あるときはこの人々の為に 仏の命は無量であると説く 長い間があって今やっと仏に会えた者には 仏に会う事は難しいと説く 私の知恵の働きはこのようである 智慧の輝きが照らすこと無量であり 寿命は無数劫である 長い間の修行の結果として得たものである おまえたち事物や道理を識知・判断・推理できる者は このことについて疑ってはならない 当然疑いを断ちきり永遠になくすべきである 仏の言葉は真実であり虚妄ではないのだ 医者が目的を達するための便宜上の巧みな手段によって 狂った子を治す為に 真実には存在していてもしかし死んだと言った 虚妄と言う者はいないように 私もまた世間の父であり 諸々の地獄におちて受ける苦しみを救う者である 凡夫の心が正しい理に反しているのを見て 真実には存在しているがしかし世を去ると言う 常に私を見るという理由の為に おごり高ぶって人をあなどり自分勝手な心を生じ 勝手気ままに振る舞って財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲の五欲に執着するならば 悪道の中に堕ちるであろう 私は常に生命のあるものすべての中に 仏道を行じる者と行じない者がいるのを知っているから 悟りの境地に導く相手に応じて随時よろしく そのために種々の教えを説く いつでも私自身はこう念じている 「どの様にして生命のあるものすべてを この上なくすぐれた道に入らせ 速く仏の身を成就することを得させようか」と.

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無量寿経

きょう へき じゅ

概要 [ ] 、のによって体系化され、・、の古えのの政治を理想の時代として祖述し 、『』を保存する使命を背負った、の道を実践し、を唱えた。 その教団はの一家となって 儒家となり、(支配者の)によるで天下を治めるべきであり、同時代の(支配者の)武力によるを批判し、事実、その様に歴史が推移してきたとするを主張した。 その儒教が、国家の教学として認定された事によって成立した。 儒教は、以前の「」を聖典としていた時代である。 宋代以降にによって国家的規模での体系に纏め上げられていった。 宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「」あるいは、『』にある「、、、」であり、「」の教えである。 儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを 、 儒者、 儒生と呼ぶ。 教典 [ ] 詳細は「」を参照 儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の である。 春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、になったといわれる。 先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士を 造 ( な )す」という記述がある。 孔子は老聃に次のようにいったとされる。 孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった。 のの時、賢良文学の士で挙げられたは儒学を正統の学問としてを設置することを献策した。 の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、の門外にを立てた。 このとき作られたは(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。 記 注疏 周易正義 尚書孔安伝 尚書正義 毛詩 毛詩正義 楽経 儀礼注疏、礼記注疏 周礼注疏 春秋 春秋公羊伝注疏 春秋左伝注疏 春秋穀梁伝注疏 論語注疏 孝経注疏 孟子注疏 爾雅注疏 四書と宋明理学 [ ] 朱熹 宋代にが『礼記』のうち2篇を「」「」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。 「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。 これを道統説という。 朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。 『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く 礼儀 [ ] 子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。 」孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。 」周礼はて、つまり吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。 吉礼によって国家の天神、祖霊、地神を祭り、凶礼によって国家の苦難を哀憚し、救う。 賓礼によって周王室と他国あるいは国家間を友好親善たらしめ、軍礼によって国家同士を協調させ、嘉礼によって万民を互いに和合する。 五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、凶礼(喪葬)、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。 周礼 解説 名系 吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊 凶礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 既夕礼、士虞礼 賓礼 外交(邦国に親しむ) 士相見礼、燕礼、公食大夫礼、覲礼 軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 大射、大儺 嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) 飲食之礼、婚冠之礼、賓射之礼、饗燕之礼、脤膰之礼、賀慶之礼 冠服制度 [ ] 『論語』に「顔淵、邦を為めんことを問う。 子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服し、~(顔淵は国の治め方について聞いた。 孔子は言った、夏王朝の暦を使い、殷の輅と呼ばれる車に乗り、周の冕という衣装を着て、~)」という記述がある。 孔子が、周の冕(祭礼用の服)を模範としているのだ。 また、同じ論語の泰伯篇には、普段の衣服を質素にする代わりに祭礼用の衣服(黻冕)を豪華にした禹王を褒めている [ ]。 易経に、「黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る(黄帝と堯と舜が天下を治めた時は、その衣装のデザインを天地の色に倣った)」 とある。 乾とは天、坤とは地の事であるから、乾坤とは天地を意味している。 では天地とは何色であるのだろうか。 『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。 つまり、天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色いとされていたのだ。 ゆえに、祭礼用の衣装である冕服()の衣(上半身)は赤黒く、裳(下半身)は黄色くされていたのである。 また、『』には虞皇の衣服についても書かれている。 日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彝 藻 火 粉米 黼 黻の十二である。 それが『輿服制(車に乗る時用の衣服)』の始まりである。 衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇や『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたものである。 『儀礼』士冠礼・喪服や、『周礼』天宮司裳・春宮司服など、また『礼記』冠儀・昏儀などの各篇は、周代の服装に関する制度である。 教義 [ ] 儒教は、(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。 人を思い遣る事。 白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。 「説文解字」は「親」に通じると述べている。 「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。 孔子は仁を最高の徳目としていた。 利欲に囚われず、すべきことをすること。 仁を具体的な行動として、表したもの。 もともとは宗教儀礼でのや伝統的な習慣・制度を意味していた。 のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。 智 ただ学問に励むだけでなく道徳的認識判断力であることともされている。 智は『論語』では知と表記され意味としては聡明、明智などの意味がある。 言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。 この他にも、忠義、孝、悌という教えもある。 歴史 [ ] 起源 [ ] 儒(じゅ)の起源については、が「の遺民でを教える」 として以来、様々な説がなされてきたが、近年は、特にを専門とした集団であったとするのが一般化してきている。 東洋学者のは、紀元前、アジア一帯に流布していたおよび死後の世界と交通する「」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした。 当時はが横行しが解体されつつあった。 周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。 孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、、 儒家となっての一家をなした。 孔子と弟子たちの語録は『』にまとめられた。 孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」としてがいた。 そのうち特に優れた高弟はと呼ばれ、その才能ごとに以下の四科に分けられている。 徳行 - ・・・• 言語 - ・• 政事 - ・、• 文学(学問) - ・ その他、の実践で知られ、『』の作者とされる(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『』の作者とされるがいる。 の死後、儒家は八派に分かれた。 その中で(孟子)はを唱え、孔子が最高の徳目としたに加え、実践が可能とされる徳目の思想を主張し、(荀子)はを唱えて治主義を主張した。 『』『』『』『』『』『』といったの書物をとして儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『』や『易伝』『』『』『』といった注釈書や論文集であるが整理された(完成は漢代)。 焚書坑儒 [ ] を唱えた。 その思想はのや同じく法家で秦のであるに批判的に継承された はの変法によって伝統で氏族社会を解体し、に代表される思想によって中華統一の基盤を整備した。 がを滅ぼし中国を統一すると、思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、を起こした。 ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家のが全く滅びたというわけではなく、を経ながらも、に伝えられた。 また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えばは最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。 国教化 [ ] 後、を倒して中華を再統一したは、()を建国した。 そして地域差のある氏族制解体に対応するため、を採用し、(黄老刑名の学])によって民力の休息を図った。 この政策は・にも引き継がれた。 系の黄老思想が流行る中で、が漢の宮廷儀礼を定め、が王を朝貢させ、が『』を伝えるなど、秦の統治下にありながら儒を保管していた学者たちが活躍した。 文帝のもとではが活躍した。 の時、漢はから河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じ、無為を尊ぶ黄老思想は衰退し、代わって儒者が重用された。 『』によれば儒者・はを設置することを献策した。 武帝はこの献策をいれ、5年()、五経博士を設けたという(ただし、『』には董仲舒が献策したとの記述がなく、儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは末から初にかけてという説もある)。 武帝の時代に儒学者が台頭したのは事実であり、儒者で初めての丞相・のように、武帝の好む法家思想を儒教でコーティングする者が登用された。 また、五経博士が設置されたことで、儒家のが国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。 同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。 前漢のは一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった()。 の時には経文の異同や経説の違いを論議するが開かれている。 この会議で『』ではに対してが優位に立った。 ら公羊家はを取り入れてのを説いた。 前漢末にはが現れ、儒教顕彰のために『』を模した『』や『』を模した『』を著作している。 こうして儒教は権力にすり寄り、天という人格的な主催神を持つ宗教へと変貌した 前漢末~後漢、災異思想・神秘主義により経書を解釈した緯書が流行した(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意)。 緯書は七経(六経+孝経)に対して七緯が整理され、予言書『讖書』『図讖(としん)』と合わせて讖緯が成立し、新のも後漢のも盛んに利用した。 一方、桓譚・王充ら無神論者の思想家を唱え、合理主義的な立場から讖緯を非難した。 古文学と今文学 [ ] からたちが使っていたのは、漢代通行のに書き写され『』と言われる。 これに対し、旧宅の壁中や民間から秦以前のテキスト、『』が発見された。 前漢末、がを学官に立てようと、と学派争いを引き起こした。 の時には『』『』『』『』が、朝では『』が学官に立てられた。 では、が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の解釈学を発展させて力をつけた。 の時、の写本の異同を論じるが開かれたが、この中では攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用された。 この会議の記録はによって『』にまとめられた。 は、が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対し、全てを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、を総合的に解釈することを目指した。 は『左氏伝』をと結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。 その弟子、は『』を著してによる文字解釈の妥当性を否定し、の発展に大きく寄与している。 はを総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。 その弟子、は注を中心に全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。 では古文学説の弱点を研究して反駁した。 は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。 は博学をもって『』に注を作り、『』にまとめた。 『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。 一で『』を「陰謀の書」として斥けた。 何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。 三国時代・晋代 [ ] に入ると、がを反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。 王粛は『』を偽作したことでも知られる。 ではが『』に注して『』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。 『』にはが注を作っている。 玄学 [ ] この時代と『』に基づくが隆盛した。 玄学の側からも儒教のに注を作るものが現れ、は費氏易に注して『周易注』を作り、は『』を作った()。 には孟氏易を伝えた、『国語注』を遺したがいる。 末にはが起こり、これによっての多くの伝承が途絶えた。 になると、永嘉の乱で亡佚していた『』に対してが伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、のによって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。 この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。 南北朝時代・南学と北学 [ ] 、の儒学を 南学、の儒学を 北学という。 南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、のの時にはが置かれ、一時儒教が盛んになった。 南学では魏晋の学風が踏襲され、『』「」の注以外に、『周易』は注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は注が尊ばれた。 あまり家法に拘ることもなく、や理論も取り込んだ思想が行われた。 この時代、仏教の経典解釈学であるの学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。 ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。 梁の (ひかん、「かん」は虎+甘)の『尚書義疏』やの『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、の『尚書正義』のもとになり、『』は亡佚することなく現在まで伝えられている。 北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特にではその国名が示すとおり王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。 北朝ではのが行われ、『』・『』・『』「」は注、『春秋左氏伝』はのの注、『』はのの注が尊ばれた。 その学風は保守的で旧説を覆すことなくの学を墨守した。 にはがおり、の『』を除く経学はすべて彼の門下から出た。 その門下に北周のがおり、とりわけに通じて『礼記義疏』などの著作がある。 熊安生の門下からはの二大学者である・が出た。 隋代 [ ] 北朝系のが中国を統一したので、隋初のは北学中心であったが、の時、・の二劉が出、の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。 劉焯の『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』はの『』の底本となった。 在野の学者に(文中子)がいる。 彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、の続編という「続経」を作った。 偽作・潤色説もあるが『』に擬した『』が現存している。 末、孔孟が起こる中で再評価されの先駆者として位置づけられた。 その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手であるとする立場がのちのに影響を与えた。 のは初めてを行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。 これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。 唐代 [ ] が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。 隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、7年()にはがを校定した『五経定本』が頒布された。 さらに14年()にはを責任者として五経の注疏をまとめた『』が撰定された(二度の改訂を経て4年()に完成)。 永徽年間にはに『』『』を選定させている。 これにより七経の正義が出そろい、の成果はここに極まった。 こうして正義が確定される一方、中唐(中葉)になると批判の動きが生じた。 『』では・・がは『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『』を排斥した。 『』ではが注のに反対してを始めとする漢代を伝えた。 『』では撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の制作を否定している。 は一概に隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、やたちである。 韓愈は著書『原道』で、堯舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。 李翺は『復性書』において「」は本来的に善であり、その性に復することでになれるとした。 その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。 彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代のの先駆けとなった。 彼らは文学史上、の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。 このことが宋代の新しいを生む要因の一つとなった。 また、唐代は儒教、仏教、道教の三つが鼎立していることから、三教鼎立時代とも呼ばれており、劉禹錫(772-842)は仏教、儒教の教養を併せ持った詩僧との交流が深かったことや、当時の朝廷では道教が優遇政策がとられていたが、は道教の『老子』仏教の『金剛般若経』儒教の『孝経』の注釈書を著するなどをしたことから、この三教鼎立時代は人的にも思想的にも実り多い交流が行われていた時代であったと言える。 宋代 [ ] ははじめの継承を目指し、儒学でも注疏の学が行われた。 の『三礼図』、・らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。 になると、漢唐のにこの三疏と『孟子疏』が加えられて『』がまとめられた。 また、宋代では『周礼』が過去の王朝と比較しても知識人たちの関心を惹いた。 宋初三先生の一人・石介は『周礼』を大義名分を解く『春秋』とともに「万世の大典」とした。 また『周礼』は科挙制度の改善にも利用された。 唐宋八大家の一人であった欧陽脩は『周礼』の「教民、興学、命士の法」に対して深い共感を持った。 道統論 [ ] しかし、宋の天下が安定した期になると、唐末のが共感され、漢唐時代は否定されるようになった。 漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置くが盛んになった。 例えば、古文家のは「 - - - - 」の系譜を提出し、はこれにのを加えた。 ここに孟子の再評価の動きが起こった。 宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。 は改革で従来の『』『』に代わって『孟子』を挙げ、になると撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。 としても伝統的なからが主張されるようになっていく。 逆にのやのは評価の対象から外されていった。 漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。 ・・は「仁義礼楽を以て学と為」し、後にによって 宋初三先生と称されている。 新学 [ ] 期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。 その代表がの である。 王安石は『』『』『』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。 これら新注は学校に頒布されての国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。 王安石は特に『周官新義』を重んじ、『』に基づくの樹立を目指し、さまざまなを実施した。 新学に異議を唱えたものに・らの 洛学()、・らの 蜀学、らの 関学があった。 を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。 天論 [ ] この時代、「」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。 それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただがあるとされた。 その先鞭をつけたのは中唐のの「天説」・の『天論』であり、においてはの『』五行志・の『洪範伝』・の『春秋伝』などに見られる。 程頤の理・程顥の天理は後のに影響を与えた。 このような天観の変化によって『』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。 または「太虚即気」説を唱え、が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。 この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。 こういった唐宋変革期のシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。 南宋時代 [ ] 宋朝は北方をに占領され、南渡することになった。 この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。 初、の直弟子であるは北宋亡国の責任はの新学にあるとしてに王安石の解釈を用いるべきではないとに進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。 程頤に私淑したは『』に注して『』を著し、『』に基づく新学を批判した。 の弟子であるはの『皇極経世書』、の『通書』といったと『程氏易伝』やの『』といったを総合して『』を著し、王安石やの易学に対抗した。 新学を重んじた重鎮の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。 朱熹 [ ] 朱熹 の時代には、後にと呼ばれる学術体系を構築したが現れる。 洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。 彼はの再伝弟子というとの出会、胡安国の子の学を承けた(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、の言葉という「心は性と情とを統べる」との「」による定論を得、一家を成して 閩学(びんがく)を起こした。 宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、に基づいて性は絶対的に善であるとした。 そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「」と外界の観察や読書による「」とを主張した。 では、を学ぶ前段階としての学を設け、『』を著した。 さらに『』には経を占いの書として扱った『』、『』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『』、「礼」には『』を経とし『』を伝とした『』を著した。 『』には弟子のに『』を作らせている。 の弟子には、、、の易学を研鑽したと『書集伝』を編纂した父子、『』に朱熹の用語を字書風にまとめたなどがいる。 同時代、永康学派のや永嘉学派の(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする 事功の学を唱えて自己の内面を重視するを批判した。 江西学派のは心の構造論において朱熹と考えを異にし、説にもとづく独自の理論を展開した。 朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが()、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。 また、朱熹はを用いて科挙制度を批判した人物としても知られていることから教育分野にたいして積極的に取り組んでいた人物であるといえる。 朱熹はをただ暗記するだけの学問であると批判した。 というのも当時の科挙は『五経正義』という唐代に成立した国の注釈書を暗記することが科挙の対策であったためである。 朱熹は学問には過程があるとして、「日常的しつけ」から「理論および社会的行動」へという過程をさだめさらにそのためのテキストもさだめた。 その内容は8歳で学ぶ段階では『小学』を15歳以降は『四書』と『五経』を定めた。 道学 [ ] 陸九淵の学は、によって顕彰され、 心学(陸王心学)の系譜に入れられた。 この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めてと呼ばれるようになり一世を風靡した。 一方、・・らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。 の3年()、のが宰相に与する一党を権力の座から追放するが起こり、趙汝愚・・・・・ら59人が禁錮に処された。 その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。 朱熹は6年()、逆党とされたまま死去した。 偽学禁令は4年()に解かれた。 はその「理」字が示すとおり道学を好み、の門流、・らが活躍した。 真徳秀の『』は後世、帝王学の教科書とされている。 の時には『』の、『』『』で知られるがいる。 いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。 元代 [ ] 従来、金では道学は行われず、の捕虜となったが・に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。 代、姚枢から学を承けたが出て、が大いに盛んになった。 元は当初、金の継承を標榜しておりは意識されていなかった。 許衡はの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。 南人ではが出て朱子学を大いに普及させた。 彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、の学の成果を積極的に導入している。 許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として 北許南呉と称された。 元代、で一大改革が起こった。 漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。 これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。 また、金代(1115-1234)に成立した全真教においては、儒教の一致を唱えており、儒教的な徳目をも取り込んでいった。 このような宗教が広まることで庶民の間にもその宗教は広まっていく。 明代 [ ] を興した太祖のもとにはやといった道学者が集まった。 劉基は明の制度の制定に取り組み、出題科目としてを採用し、また試験に使う文章に後に言う「」の形式を定めた。 宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。 宋濂の学生にはに仕えてに仕えることを潔しとしなかったがいる。 はらにの文献を収集させて百科事典的な『』『』『』を編纂させ、広く学校に頒布した。 この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。 『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『』は廃され、が体制教学となった。 明代前期を代表する道学者として・が挙げられている。 薛瑄は、が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「」と「」では「居敬」を重んじた。 呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から・・が出た。 胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。 婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学はの学で、経書解釈も主観的だと非難されている。 陳献章はを重んじたことで知られており、胡居仁からその学はだと批判された。 陳献章門下にはと親交が深かったがいる。 王陽明 [ ] 王陽明 明代中期、(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『』の「」について新しい解釈をもたらした。 朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、の説を引用して、は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。 「致知」については『』にある「」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「」(良知を致す)だとした。 そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一()が唱えられた。 致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人がに流れる弊があるのを鑑み、を説いた。 道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな観をもたらした。 王守仁の学は(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。 この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。 道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物としてがいる。 王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「」を主張した。 さらに、このような気一元論を徹底させたのはである。 彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。 理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。 王守仁も晩年、心の本体をとする説を唱えている。 弟子のはこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとするを主張したが、同門のは意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要としたを主張してこれに反対している。 以後、無善無悪からはの(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。 さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることでや『』『孟子』さえ否定するに到った。 東林学派 [ ] 社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとするが興った。 彼らはの心即理やを批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。 彼らが行った君主批判や地方分権論は清初のへと結実していく。 その思想は東林学派の一員であるの子で、の弟子であるの『』に総括されることになる。 朱元璋の六諭 [ ] 明代は儒教がから庶民へと世俗化していく時代である。 朱元璋はを発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。 明代中期以後、・による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁やの人士もその普及に尽力している。 これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。 一方、王守仁と同時代のは郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『』を参考に『泰泉郷礼』を著した。 朱熹の『家礼』は元から明にかけて『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、という家族形態とともに庶民にまで普及した。 のには樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。 明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、に対する実証学的研究の萌芽も見られる。 は『尚書考異』を著し、通行の「」が偽書であることを証明しようとした。 は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代研究の道を開いている。 清代 [ ] 朝滅亡と異民族の朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。 明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしったにあると考え、実用的な学問、 を唱えた。 その代表はや、である。 彼らはその拠り所を・史書に求め、への回帰を目指した。 そのアプローチの方法は(客観的実証主義)であった。 彼らの方法論がやがて実証的な古典学であるを生む。 一方、は・ともに批判し、となる方法は読書でもでもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。 「」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。 顔元の学は弟子のによって喧伝され、 と呼ばれる。 こういった清初の思想家たちは上、一様に 気一元論であり、やの先天的に存在するとした「」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。 このように中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理( 分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。 考証学 [ ] 清の支配が安定してくると、実学よりもを始めとするを実証的に解明しようとするが興った。 はの主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。 は『』を著して「」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。 は『』を著し朱子学が重視した「」や「」「」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。 彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。 ・年間はが隆盛した時代である。 そのから 乾嘉の学と呼ばれる。 顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、を始めとするを中心とする 呉派、出身のらの影響を受けた 皖派(かんぱ)がある。 彼らは・・やなどに長じていた。 特に後漢の名物訓詁の学を特徴とするに基づいており、 漢学とも呼ばれる。 一方、黄宗羲の流れをくむ は史学に長じ、その代表であるは 六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。 やや後れてを始めとする が起こり、乾嘉漢学を発展させている。 以降になると、 の前漢が隆盛した。 彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじるを排除して今文経、ひいてはへと回帰することを目指した。 その拠り所とする に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、を始めとするの理論的根拠となった。 近代 [ ] の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようというが興った。 洋務派官僚のはを重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初のを顕彰して実学の必要を説いた。 はの学説に反対して『』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。 孔教運動 [ ] 康有為 を進めるは、『』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した 孔教を提唱した。 康有為の孔教運動はを廃してを用いることを主張するなど従来の体制を脅かし、清朝から危険視されて『孔子改制考』は発禁処分を受けた。 変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折の一因となる。 しかし、が起こると、康有為はに孔教会を設立して布教に努め、孔教をの国教にする運動を展開した。 彼らの運動はを掲げる反対派と衝突し、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。 その後、、ののクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失った。 康有為が唱える孔子教運動には、弟子のが積極的に賛同し、中国・アメリカで活動した。 この他に賛同した著名人としてがいる。 現代 [ ] 新文化運動 [ ] 後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとするを興した。 雑誌『』を主宰する・・らは「孔家店打倒」をスローガンに的な制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。 一方、雑誌『学衡』を主宰する・・・らは、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。 清末から隆盛したによる古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、、を始めとするが経書や古史の偽作を論ずる『』を創刊した。 顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、堯・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。 さらにははと無関係であるばかりでなくとも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。 中華人民共和国時代 [ ] 的を掲げるが成立すると、「 儒教は革命に対する反動である」として弾圧の対象とされた。 特に期には、 として徹底弾圧された。 多くの学者は海外に逃れ、中国に留まったは激しい迫害を受け自殺したといわれる。 儒教思想が、の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。 なおはを愛読し、をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。 再評価と「儒教社会主義」 [ ] だが、に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。 孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を と名付け世界展開を進めている。 また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。 文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。 ほかにもが進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学であるが「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。 国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている。 ダニエル・A・ベル Daniel A Bell 北京哲学教授によれば、近年、中国共産党は「」または 宋の時代にもあった)を唱えている。 ベトナムにおける儒教 [ ] 19世紀末のの風景 漢王朝()の時代に儒教が伝播したが、当地から著名な儒家を輩出することはなかった。 10世紀にが成立すると儒教制度が本格的に導入され、政治領域をはじめ教育、学術、文芸、文化風俗などにおける影響力が強くなった。 しかしながら、仏教や道教と比較して絶対的優位とはならなかった。 15世紀にが成立すると、仏教・道教に対する儒教の優位性が確立され社会の各階層に浸透した。 これに伴いベトナムは東南アジア的な性質を徐々に失い、としての色彩を強めるに至った。 18世紀から19世紀にかけては儒教の影響が最も強くなった。 17世紀から19世紀にかけて、、、、などの著名な儒家を輩出した。 朝鮮における儒教 [ ] 「」を参照 日本では儒教は 儒学 として受容され、国家統治の思想や的な受容をされたため、やに比べても、宗教として意識されることは少ない(を参照)である。 ただし、のようながほぼ「」に限られるように、自覚されない文化的行為の中に儒教的な考え方(価値観・社会規範などの広義の宗教)が共通のものとして基底的にあると考えられる。 儒学の伝来 日本に儒教が伝来したのは、5世紀のによってである。 朱子学は漢籍に紛れて輸入され、僧侶に学ばれた()。 とは仏教から朱子学に転じ、に仕えた。 近世の代表的な朱子学者として、、、、、、などがいる。 新井白石や荻生徂徠は政治にも深く関与した。 朱子学はにより官学化された。 朱子学は庶民にも広く学ばれ、大坂では町人によりが開かれた。 朱子学批判 やは朱子学を学びながらもそれに疑問を呈するようになっていった。 は陽明学に転じ、道学を教え近江聖人と呼ばれた。 弟子のは農本思想を説いた。 は聖学を創始し、孔子本来の教えに立ち戻ることを主張した。 は道徳とは性即理(本然の性)によるのではないとし、日常的生活実践としての忠恕を重視した。 は礼楽刑政の道とは聖人が制作したものであり、その制度を現在の政治に実現することを説いた。 徂徠の弟子には文人のや、『経済録』のがおり、後世にはや、らの経世家に影響を与えていった。 ではらが朱子学を教えたが、など朱子学に疑念を呈するものや、やなど、儒学を始めとする宗教を否定する合理主義者が現れた。 幕末の儒学 のは朱子学のほかに陽明学を修め、や、ら幕藩体制秩序の破壊を試みた弟子を輩出した。 陽明学者のは、を起こして、幕府に挑戦した。 尊王思想は古学派にも萌芽が見られ、本居宣長、、、、、らによって展開されていった。 を招いて朱子学を研究していた水戸徳川家では、『』編纂の過程からが形成され、、らが尊王思想を展開した。 は『新論』で尊皇攘夷思想を体系化し、幕末の志士に伝えていった。 はその一人であり、孟子、水戸学、をで教え、弟子からはら倒幕の志士が現れた。 近現代の儒学 明治維新の志士たちは水戸学や陽明学を信奉していたから、明治以後にも研究が行われた。 は朱子学、陽明学、古学を研究した。 漢学者のはを起草したが、天皇の教えという形を取りながら、実質的には儒教道徳を説いた。 天皇制国家とが作られてからも、政府中枢に漢学者がおり、たとえばはに関与した。 民間右翼の中に儒学を元に尊王思想を説くものもあった。 やや、らは日本の儒教を研究した。 戦後は大学で儒教が学ばれたり、ビジネスマンの教養として『論語』が読まれるに留まる。 儒教研究上の論争 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2009年11月) 儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、との思想的関係、やの捉え方など様々な論争がある。 などは、宗教を「に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。 しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事が可能なのである。 その他の学説 [ ]• 孔子廟 [ ] 詳細は「」および「」を参照 中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。 中国の各地に孔子を祭る廟がある。 これを 文廟といい、 、 孔廟、 ともいう。 (特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた が有名。 )中国国内のの多くは時に破壊されたり損傷を受けている。 日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。 が、その代表である。 文献 [ ] 概説書• 『儒教とは何か』• 『儒教の知恵-矛盾の中に生きる』 中公新書• 『儒教哲学の研究』• T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳• 編 『 論語』、2001年、• 『孔子の一生と論語』 、2007年、• 編 『21世紀に儒教を問う』 〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、• 永冨青地編 『儒教 その可能性』 〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、 伝記• 『孔子伝』• 『如是我聞 孔子伝』(上下)、、1990年• 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、• 『論語之研究』 、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊• 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊• 『論語の新しい読み方』 編、岩波現代文庫、2000年、 五経• 『易経 』 全3巻: (上)、(中)、(下)• 『易 〈中国古典選〉』 新版:• ・ 『易経』 (上)、(下)• 『書経 (上) 』• 『書経 (下) 』• 池田末利 『 』• 『詩経 』 全3巻:、新書漢文大系(抄訳版)がある。 (上)、(中)、(下)• 『詩経国風』 、• 『詩経雅頌』 全2巻、 1 、 2• 『礼記 』 全3巻 (上)、(中) 、(下)• 『礼記』(「漢文大系」、初版1913年。 のち改訂版)• 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:、初版1914年• 『礼記』(「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年)• 『礼記』(〈中国古典新書〉、初版1973年)• など 『礼記 』( 全3巻)• 『春秋左氏伝 』 全4巻 1 、 2 、 3 、 4• 竹内照夫 『春秋左氏伝 4. 6』、• 『春秋左氏伝』、岩波文庫全3巻 (上)、(中)、(下)• 訓点 (復刻)• 『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝 (日原利国訳) 、筑摩書房、1970年• 著 『春秋公羊伝の研究』 〈東洋学叢書〉、1978年• 著 『 公羊伝と穀梁伝』 〈研文選書〉、2001年、 四書• 『大学』 講談社学術文庫 1983年• 『大学 中庸』 2004年• 『大学・中庸 〈新釈漢文大系2〉』 1998年• 『中庸』 講談社学術文庫 1983年• 『大学・中庸』 〈中国古典新書〉、1968年• 『論語 〈 1〉』 明治書院、初版1960年、• 『論語 〈中国古典選〉』(上下)、新版:、1996年• 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、• 『現代語訳 論語』 、2000年、• 『論語』 、2004年、増訂版2009年• 『孟子』 (上) 、(下)• 貝塚茂樹 『孟子』 版、抄訳版• ・ 『孟子 〈 4〉』、、新書漢文大系(抄訳版)がある。 『孟子 2』 関連古典• 池田末利編訳、 〈東海古典叢書、全5巻〉• 加地伸行 『孝経』、講談社学術文庫、初版2007年• 栗原圭介 『孝経 新釈漢文大系35』 、• 『荀子』 岩波文庫(上下)、(上) 、(下)• 藤井専英 『荀子 5・6』 、新書漢文大系(抄訳版)がある。 金谷治・佐川修 『荀子 7・8』• 栗原圭介 『大戴礼記 113』 、 史書 [ ]• 孟子荀卿列伝• 訳 『孔子家語 53』。 新書漢文大系(抄訳版)がある。 訳 『孔子家語』• 『論語集註』• 『』 訳著、たちばな出版(選書版) 上:、中: 、下:• 『「」抄』 訳注、• 著 『と』• 『』 訳、中公クラシックス 朝鮮の儒教と儒学 朝鮮時代の五礼 吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼 の礼法を記した「国朝五礼儀」と、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」に基づいて。 『論語徴』 訳註、 1 2 脚注 [ ] []• なお儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「 儒学者」といわずに、「 儒教研究者」と呼ぶべきとする見方もある [ ]。 ただし京都大学教授のや、評論家のは、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。 天運篇• 朱子・語類巻14より。 これは即ち、四書の読み順まで記している。 (儒教の世界観においては)天から与えられた至徳を明らかにする事、知を致し物に格る。 中こそは天下の大本であり、和こそは天下の達道である。 中と和を極致に達せしめた時、天地の秩序は定まり、万物は生成発展する。 儒教の目的とその目的達成への目標が掲げられたのが「三綱領」・「八条目」であり、朱熹はを唱え自らの「学」の正当性を主張した。 堯舜孔孟に「御目にはかかわらずとも、あの道理が心へ来れば、朱子の理与心と云はるるが大切の事なり。 孟子の後あとの賑かな漢の経術に斯く云は見て取たるに極まる。 偖、文章は下卑たこと。 孟子と文選幷べたときに、文の上では腕押しなり(=孟子を文選の上位に置く事は愚かしき事)。 韓氏が見て、孟子の後道を得たもの無し、と。 そこで程子のみ来て、非是蹈襲前人云々なり。 道統は中庸の心法、それは大学の事。 其致知がすま子ば道統は得られぬ。 『周礼・春官宗伯』• 論語 衛霊公第十五 10• 2012年3月13日, at the. 土田健次郎『儒教入門』東京大学出版会、2011年12月19日、新、29頁。 孔祥林『図説孔子』科学出版社〈国書刊行会〉、2014年12月22日、新、113頁。 高畑常信『中国思想の理想と現実』木耳社、2014年10月6日、新、31頁。 論文「説儒」()• 白川「孔子伝」• 『』孔子世家• 『世界哲学史2』(、2020年)119-121ページ• 『世界哲学史2』(、2020年)119-121ページ• 湯浅邦弘『概説中国思想史』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書房〉、2010年、新、87頁。 吾妻重二『宋代思想の研究』関西大学出版部〈遊文舎〉、2009年3月18日、新、72頁。 湯浅邦弘『概説中国思想史』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書房〉、2010年10月25日、新、116頁。 湯浅邦弘『概説中国思想史』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書房〉、2010年10月25日、新、264頁。 『不平等国家 中国--自己否定した社会主義のゆくえ』 、2008年5月25日、177-178頁。 guardian. uk, Sunday 26 July 2009]。 黄俊傑; 阮金山 2009. 中国語. 《台灣東亞文明研究學刊》 12: 221-226. の2014-10-21時点におけるアーカイブ。 2019年3月3日閲覧。. 『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』、平成17年2月1日改訂第1版、、p72 関連項目 [ ].

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きょう へき じゅ

概要 [ ] サンスクリット原典、チベット語訳、が現存する。 日本では特記が無い限り『無量寿経』というと、の訳とされる『 』の事を示し、やでは根本所依の経典とされる。 漢訳 [ ] 『大スカーヴァティー・ヴィユーハ』のは、かつて古来中国に12訳が存したと日本では伝えられており、5つの訳本が現存し、7つの訳本は欠本とされる。 五存七欠十二訳と呼ばれる。 現存するうち、「 」・「」・「」の訳者に関しては諸説ある。 いずれも無量寿佛の立誓、浄土・極楽往生が説かれるが、内容は同一でなく差異がみえる。 仏説無量清浄平等覚経 [ ] 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。 『仏説無量清浄平等覚経』4巻 の訳…「漢訳 」• 『』(以下、『大正蔵』) 第12巻 P279~P299。 原文の経題の表記は、『佛説無量清淨平等覺經卷第一』、『佛説無量清淨平等覺經卷第二』、『佛説無量清淨平等覺經卷第三』、『佛説無量清淨平等覺經卷第四』 後漢月支國三藏支婁迦讖譯。 略称は、『 清浄平等覚経』、『 平等覚経』が用いられる。 の訳、曹魏の白延(はくえん〈帛延とも〉)訳との説もある。 の本願は、「」ではなく、「二十四願」である。 主な引用先…:『』、…『』、:『』、:『』、『』、作者不詳:『安心決定鈔』。 仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経 [ ] 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。 『仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』2巻 の訳…「呉訳」• 『大正蔵』第12巻 P300~P317。 原文の経題の表記は、『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上』、『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷下』 呉月支國居士支謙譯。 別称には、『 大阿弥陀経』がある。 後漢の支婁迦讖訳とする説もある。 阿弥陀仏の本願は、「四十八願」ではなく、「二十四願」である。 主な引用先…源信…『往生要集』、法然:『選択集』、親鸞:『教行信証』。 仏説無量寿経 [ ] ウィキソースに の原文があります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 『 仏説無量寿経』 2巻 の 訳…「魏訳」• 漢訳のうち日本の浄土教諸宗において主に用いられるのは、 康僧鎧が訳したとされる『 仏説無量寿経』2巻である。 浄土教諸宗において「無量寿経」といえば、特に注意書が無い場合は、康僧鎧訳の『仏説無量寿経』を指す。 上下巻の2巻からなるため『双巻無量寿経』(『雙巻無量壽經』)、『双巻経』(『雙巻經』)とも呼ばれる。 また、経名に「大」の字を冠して『 大無量寿経』と称し、略して『大経』とも称する。 の根本聖典の一つで、『 』(訳)、『 』(訳)とともに「 」と総称される。 の宗祖とされる親鸞は、この経典を特に重んじ、浄土真宗の最重要経典である。 また「浄土三部経」の中でも、『大無量寿経』を根本経典と位置付けている。 『大正蔵』第12巻 P265~279。 原文の経題の表記は、『佛説無量壽經卷上』・『佛説無量壽經卷下』 曹魏天竺三藏康僧鎧譯。 訳者に関しては、様々な説がある。 一般の経典には、「曹魏天竺三蔵康僧鎧訳」と書かれている。 「魏訳」の特徴として、「自然」「無為」「清浄」など、曹魏・西晋時代のないしと共通する用語が多く見え、それらの影響が強く反映されている。 内容 [ ] 上巻 序分にのにおいて、優れた比丘やたちに対して、が五徳の瑞相をあらわし説かれた。 正宗分には、ある国王が世自在王仏のもとで出家し法蔵菩薩と名乗り、偈文(「讃仏偈」)を作り師を讃嘆し、諸々の仏の国土の成り立ちを見せて欲しいと願いを述べ、その仏国土より優れた点を選び取り、発願(ほつがん)し、五劫の間思惟して行を選び取った。 願と行を選び取った法蔵菩薩は、師に向かい48の願()を述べた。 続けてこの願の目的を述べ重ねて誓った(「(重誓偈・三誓偈)」)。 そして兆戴永劫にわたり修行し、願が成就し、 無量寿仏( 阿弥陀仏)と成り、その仏国土の名が「極楽」であると説かれる。 願が成就してから十劫が経っていて、阿弥陀仏の徳とその国土である「極楽」の様子が説かれる。 下巻 極楽浄土に生まれたいと願う者は皆、仏になることが約束され、阿弥陀仏のを聞信し喜び、心から念ずればが定まると説かれる。 その者たちは、上輩・中輩・下輩に分けられ、それぞれの往生の方法が説かれる。 修行もやり遂げられない、善行も戎も守りきれない下輩の者は、たとえわずかな回数でも、一心に念ずれば往生がさだまると説かれる。 そして釈尊は、偈文(「東方偈〈往覲偈〉」)を読み、教えを聞き、阿弥陀仏を敬い、「極楽」への往生を勧める。 さらに浄土に往生した聖なる者たちの徳を説かれる。 次に釈尊はに対して、煩悩のある世界()に生きる衆生の苦しみの理由を、 ・ によると示し、誡める。 続けて弥勒菩薩に、そのままではその苦しみから逃れられない事を説き、「極楽」に往生する事が苦しみから逃れる方法であると説かれる。 それは、ただ無量寿仏の名を聞いて、たった一度でも名を称えれば(念仏)すれば、功徳を身に供える事ができると説いた。 この教えを聞いたものは、後戻りする事は無い(必ず往生できる)と説かれる。 流通分には、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、時が流れ一切の法が滅しても、この経(『無量寿経』)だけは留めおいて人々を救いつづけると説かれる。 無量寿如来会 [ ]• 『無量寿如来会』2巻 の 訳…「唐訳」• 『大正蔵』第11巻 P91~P101。 原文の経題の表記は、『大寶積經卷第十七』「無量壽如來會第五之一」、『大寶積經卷第十八』「無量壽如來會第五之二」 大唐三藏菩提流志詔譯。 略称は、『 如来会』が用いられる。 阿弥陀仏の本願は、「魏訳」と同じ「四十八願」である。 主な引用先…親鸞:『教行信証』、『』、『愚禿鈔』、『』、『』、『』、『親鸞聖人御消息(善性本)』、:『正信偈大意』。 仏説大乗無量寿荘厳経 [ ] 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。 『仏説大乗無量寿荘厳経』3巻 の法賢(ほっけん)訳…「宋訳」• 『大正蔵』第12巻 P318~P326。 原文の経題の表記は、『佛説大乘無量壽莊嚴經卷上』、『佛説大乘無量壽莊嚴經卷中』、『佛説大乘無量壽莊嚴經卷下』 西天譯經三藏朝散大夫試光禄卿 明教大師臣法賢奉詔譯。 略称は、『 荘厳経』が用いられる。 阿弥陀仏の本願は、「四十八願」ではなく、「三十六願」である。 欠本とされている7つの異訳本 [ ]• 『無量寿経』2巻 後漢の訳とされる。 『仏説無量清浄平等覚経』2巻 曹魏の白延訳とされる。 『仏説無量寿経』2巻 西晋の竺法護訳とされる。 『仏説無量寿至真等正覚経』1巻 の竺法力(じくほうりき)訳とされる。 『新無量寿経』2巻 東晋の仏陀跋陀羅訳とされる。 『新無量寿経』2巻 東晋の宝雲(ほううん)訳とされる。 『新無量寿経』2巻 の曇摩蜜多(どんまみった)訳とされる。 注釈書 [ ]• 造・菩提留支訳 - 菩提留支による漢訳が現存するのみで、サンスクリット語の原典は発見されていない。 註解 - 『浄土論』の注釈書であり、『無量寿経』に対する複注釈書。 撰 『無量寿経連義述文賛』 - 撰 において多く引用される。 経典成立時期と編纂者 [ ] 「仏説 」とは、釈尊が自ら口で説いた教えのことである。 しかし、釈尊の在世時から滅後100年頃までは口伝によって教えである「法」と規則である「」が伝えられる。 それら「法」と「律」は、「」によって認証確定されていく。 そして滅後100年を過ぎた頃に、「法」を集めた「経蔵」と「律」を集めた「律蔵」が成立したものと考えられる。 (詳細は、を参照)。 成立時期などに関する諸説 仏典研究上では、阿弥陀仏に対する信仰は、客観的な資料がとぼしく諸説 存在するが、インドおよび近隣諸国の思想の影響下、「釈尊観の展開によるとする説」が有力である。 以来の釈尊観の発展、および『無量寿経』の法蔵菩薩説話における仏伝の投影から、浄土教は大乗仏教が伝播するに伴う菩薩思想の深化の中で、釈尊観の展開としたものと考えられる。 仏教学者のは、・浄土経典はがいちおう確立したのちに出現したものとする。 140年頃かそれ以前には、『無量寿経』・『阿弥陀経』が漢訳されたとする。 (を参照。 は、釈尊入滅から500年前後には大乗仏教が成立したものと考え、『無量寿経』の成立時期について、釈尊入滅後約500年とし、編纂者は不明とする(P. 251を参照)。 は、原始仏教において、阿弥陀仏、極楽浄土の観念、浄土思想が存在しなかったとする。 (29号、80P. を参照) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 大正15年()に日本で出版された著の『在家仏教』の康僧鎧譯無量壽經の眞相(64頁)の記述などに「五存七欠」の表記がみえる• 「『無量寿経』の漢訳は、古来「五存七欠」の十二訳があったといわれているが、実際にそれだけの翻訳があったかどうかは疑わしい。 」 『新訂 仏教学概論』p150、浄土宗、2004• 後 漢の時代の 訳の意。 『大無量寿経』…法然『選択本願念仏集』、親鸞『顕浄土真実教行証文類』などで『大無量寿経』の語を用いている。 (『選択本願念仏集』岩波文庫、P. 168、『教行信証』岩波文庫、P. 29を参照。 貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)。 殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、飲酒(おんじゅ)。 唐の菩提流志(ぼだいるし)…北魏の菩提流支とは別人• 仏説…仏教の教義。 また特に、釈迦が自らの口から直接説いた教え。 (『』第二版より) 出典 [ ]• 、平凡社。 、、平凡社。 『仏教学辞典』 法藏館、1995年、新版、P. 317「大蔵経」を参照。 成立時期の諸説…なおまた、この阿弥陀仏思想が、いつごろ、どのようにして成立したかについては、それを解明する客観的な資料がとぼしく、種々の問題が残るところである。 しかし、現在にいたる研究成果によれば、この阿弥陀仏思想は、大乗仏教興起の初頭、のころに成立したものと考えられ、またその成立事情については、多くの異説が存在するが、それらを整理すると、インド以外の外来思想に基づくとする説、インドのヴエーダ神話に基づくとする説、仏教内の神話に基づくとする説、および釈尊観の展開に基づくとする説がある。 その中でも最も妥当な見解としては、インド内外の諸思想の影響を認めつつも、基本的には、釈尊観の展開によるとする説であろう。 すなわち、原始仏教以来の釈尊観の発展や、法蔵菩薩説話における仏伝の投影などからすれば、この阿弥陀仏思想は、基本的には、大乗仏教における菩薩思想の深化の中で、釈尊観の展開として、生成、発展してきたものと理解されるのである。 (より引用)• 「は小乗仏教がいちおう確立したのちに出現したものであることは違いない。 浄土経典の成立の中に出て来る仏教術語は、部派仏教のものをとり入れ、それを前提にしている。 249より引用) 参考文献 [ ]• 浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂『浄土三部経 -現代語版-』本願寺出版社、1996初版刊行。。 、・ 訳注『浄土三部経 上』〈 青306-1〉、1990年。 中村 元、早島鏡正・紀野一義 訳注『浄土三部経 下』岩波書店〈岩波文庫 青306-2〉、1990年。 信楽峻麿「現代真宗真偽論」(真宗連合学会 編『真宗研究』2002年1月)• 多屋頼俊、横超慧日・舟橋一哉 編『仏教学辞典』法藏館、1995年、新版。 大橋俊雄 校注『法然 選択本願念仏集』岩波書店〈岩波文庫 青340-1〉、1997年。 金子大栄 校訂『親鸞 教行信証』岩波書店〈岩波文庫 青318-1〉、1957年。 関連項目 [ ]• 落語『』…無量寿経に出てくるありがたい言葉を全部並べた結果とんでもない事に 外部リンク [ ]• …『大正新脩大藏經』のオンライン検索(テキストデータによる閲覧)• …『大正新脩大藏經』と入力検索すると、同書が写真により閲覧ができる。 聖教電子化研究会 ・.

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