ジョン デューイ。 デューイ

問題解決学習(もんだいかいけつがくしゅう)とは

ジョン デューイ

1859. 20 - 1952. 1 米国の社会者,,教育学者。 元・コロンビア大名誉教授。 生まれ。 バーモント大 1879年 卒。 においては、を大成し、プラグマティズム運動を世に広めた。 教育の分野では、「進歩主義運動」を指導しつつ、広く世界の教育改革に貢献した。 で実験学校を設け、彼の理論を実践した。 出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊) 20世紀西洋人名事典について の解説.

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ジョン・デューイと同夫人|玉川学園について|玉川学園

ジョン デューイ

しまーす! それでは、デューイの著書に触れる前に、まずデューイとはどのような人物なのかを一緒に確認しておきましょう。 ジョン・デューイ 1859~1952年 は、20世紀前半に活躍したアメリカの哲学者です。 高校や小学校の先生を経験した後、シカゴ大学やコロンビア大学などで大学教授を務め、『学校と社会』 1899年 や『民主主義と教育』 1916年 『経験と自然』 1925年 など、多くの著書を残しました。 デューイが生きた19世紀後半から20世紀半ばにかけてのアメリカは、めまぐるしい社会変化に包まれていました。 いち農業国だったアメリカが、凄まじい経済成長を遂げ、1914年第一次世界大戦や1929年世界恐慌を経験していきます。 産業革命を経て先進的な工業国へと成長したアメリカに、様々な地域からの移民が押し寄せるようになったのもこの時期です。 アメリカがそのような社会変化の波をどのように乗り越えていくべきか、デューイは深く考え続けました。 それがデューイの教育理論や考え方の根本にあります。 それでもデューイは学校を創ることは必要だと考えたのね。 なんだか強い信念を感じるわ。 教育の中心は子ども! それはコペルニクス的転回 『学校と社会』の中でデューイは、教育の中心は教師でも教科書でもない、子ども自身だと主張しました。 「重力の中心移動」という言葉を用い、それまでの教育のあり方を否定したのです。 デューイはこれを「コペルニクス的転回」と言い表しています。 「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言に尽きる。 重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうと良いが、とにかく、子ども自身の直接な本能と活動以外のところにある。 中略 今日の我々の教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。 それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移された時と同様の変革であり革命である。 中略 子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々の営みが組織される。 」 より 「学校教育の中心は子ども」という考え方は、今でこそ当然のように感じられるかもしれません。 しかし、当時の学校教育にはまだその視点がありませんでした。 当時は、教師または教科書のような絶対的なものの考えを、子どもに教え込むことが教育であると考えられていました。 これでは、子どもが学ぶという過程は同じでも、子どもの身に付く力が変わってしまうはずです。 たしかに、クラスのお友達と一緒に考えながら答えを見つけることって、社会に出てからも役に立つ大切な考え方よね。 学校はいまや、 中略 生活と結びつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会を持つ。 学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。 デューイ著より デューイがこのように考える背景には、当時のアメリカ社会の状況が大いに影響しています。 19世紀から20世紀のアメリカでは、急激な経済成長により工業化が進み、移民社会を築いていました。 そして、その状況が様々な対立を生じさせていきます。 経済成長によって労働者と資本家の対立が起こったり、新たな移民の流入によってそれまでの住民との間で対立が生じたり、人種間の差別的対立が顕在化したりするようになりました。 そのような状況を捉えていたため、デューイは、国を安定させるに学校教育の重要性を訴えたのです。 デューイは、ただ教科書を読ませたり覚えさせたりするような、それまでの学校教育のあり方を批判しました。 一方的に知識を詰め込むだけでは、子どもは形式的で受動的にしか行動出来なくなってしまうため、これからのアメリカ社会の変化に対応していくことが出来ないと考えたのです。 このデューイの考えは、今から100年以上前に提唱されていることに驚きます。 同じような主張をテレビや紙面で見たことがある気がするくらい、現代的な考え方のように感じられます。 日本には移民が少なかったから、多様性って考え方が芽生えるのは、アメリカの方が少し早かったのかもしれないわね~ 学校のカリキュラムの統一を提言 学校のあり方を再定義すべきと述べたデューイ。 その上で、学校のカリキュラムの統一を提言しています。 デューイの掲げる「統一」は、すべての学校のカリキュラムを同じにするという意味合いではありません。 計算や文法、歴史や地理など、どれも重要なものではあるけれど、どれも断片的でバラバラの方向を向いているため、本当に生活に即していると言えるのか、とデューイは指摘します。 ひとつの物事の中から、様々な要素を学び、複合的に考え、実践していく過程すべてを含むカリキュラムであるべき、と言う意味での「統一」を主張しました。 つまり、今で言う「総合的な学習」「問題解決型学習」の重要性を訴えたのです。 子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的かつ能動的な関連の中で生活をするならば、彼らの学習する学科は自然に統合されるであろう。 中略 教師は、歴史の課業の中にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要性もなくなるであろう。 学校を生活と関連せしめよ。 然らばすべての学科は、必然的に相関的なものごととなるであろう。 デューイ著より デューイは、「学校」は「小さな社会」と考えるべきだと主張したように、そこで学ぶ内容も、子どもの将来に役立つよう、生活に沿った内容であるべきだと考えました。 たしかに、普段の生活の中で、授業で習った1つの科目の内容だけで完結することって、どれだけあるでしょうか。 単なる衣食住という「生活」ではなく、社会で生きるという「生活」として考えると分かりやすいと思います。 例えば、新しい仕組みや物事を考える時、これまでの歴史や成り立ちを調べたり、周囲にアンケートを取り統計を出したり、見積もりや予算の計算をしたり等、これまでの知識を総動員して、一番良い答えを出そうとしますよね。 そのように、いろんな視点を持って考え、実行することが出来るような「統一」されたカリキュラムが、教育の場でも必要だとデューイは考えたのです。 なるほど、確かに自由研究なら子どもは楽しんでやっているもんね。 自然といろんな力が身に付くってことか。 かかる注意は常に「学習」用のもの、言い換えれば、他人が尋ねるであろうところの問題に対する、すでに出来上が出来上がっている解答を記憶するためのものである。 一方、真の反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮を含んでいる。 すなわち、それは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択をすることに能動的に従事し、 中略 その問題が要求するような、解決の道筋を考察することを意味する。 中略 それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、また言い換えれば問題を考察する習慣の獲得である。 デューイ著より また、デューイは疑問を解決する道筋を立てる力、考える力を養うことの重要性を述べています。 そして、その力は生活に即した学校のカリキュラム オキュペイション によって、定着させることが出来ると考えたのです。 では、具体的にどのようなオキュペイションを良しとしたのでしょうか。 「プラグマティズム」と「公共性」というキーワード 『学校と社会』の発表以降も、デューイはたくさんの著書を残しています。 それらの中には、デューイが語られる上で外すことが出来ない「プラグマティズム」という考え方があります。 日本語では「実用主義」と訳されます。 また、「公共性」というキーワードもまた、デューイの思想を知る上でとても重要なキーワードです。 『学校と社会』の理解にも通じるものがありますので、少しその内容に触れておきたいと思います。 プラグマティズム 実用主義 とは? デューイと言えば「プラグマティズム 実用主義 」の思想家とも言われるほど、代表的な思想です。 1916年に発行された『民主主義と教育』の中で解説がなされています。 プラグマティズムとは、物事の真理を追求する際に、頭の中の理論や信念からではなく、行為やその結果によって判断しよう、という思想です。 プラグマティズムの考え方の背景には、ダーウィンの進化論があります。 デューイは、それまで哲学的な考え方に留まっていたプラグマティズムの考え方を、教育や芸術、民主主義社会など、適用範囲を広げ、世界に広めました。 つまり、プラグマティズムの実践の道を示した人物と言えます。 デューイは、行動をする際に、その都度検証・修正を加える判断をする姿勢が重要だと考えました。 判断基準というのは、必ずしも絶対的な何かが常にある訳ではなく、行動の結果次第で変化していくものだと考えたからです。 科学や道徳などの知識や概念は、問題解決のための手段や道具であると位置づけました。 プラグマティズムは、現代の教育現場でも重要とされるワードであり、企業でも重視されるような、非常に現代的な考え方と言えるのではないでしょうか。 デューイの教育理論を家庭で生かすには? デューイの教育理論は、現代の教育にも生きているように思います。 学校教育においては、「総合的な学習」や「問題解決型学習」が、まさにデューイのプラグマティズム的な考え方の実践と言えます。 では、家庭においてはどうでしょうか。 例えば、みなさん普段、子どもに「〇〇ってどうしたらいいの? わかんない~」「ママ、これ教えて~」と言われて、「はいはい、それはね」とすぐに答えを教えちゃうことってありませんか。 デューイの考え方を実践するならば、そこは答えを教えるのをぐっとこらえましょう。 なぜなら、その瞬間が「子どもの考える力」を伸ばすチャンスだからです。 答えを教えるのではなく、答えを知るための方法をヒントとして教えてあげるなどに留めておくと良いでしょう。 そうすることで、受け身ではなく、自発的に考え行動する力が養われます。 行動し、反省し、また行動しながら学ぶ。 子どもの学習の基本かもしれませんね。 自分の価値観やそれまでの概念に囚われず、検証・修正をしながら行動をすること。 現代の社会人にも必要とされるそのプラグマティズムの考え方。 子どもだけとは言わず、私自身も今日から実践していきたいものです。 『学校と社会』『民主主義と教育』『経験と教育』の3つがデューイの代表的な著書です~。 ちょっと内容は難しいかもしれませんが、極めたい方は是非~。 最後に、その他のデューイの著書を記載しておきます。 『学校と社会』『民主主義と教育』『経験と教育』の3つがデューイの代表的な著書ですので、こちらの本は参考までに。 『思考の方法』1910年• 『哲学の改革』1919年• 『経験と自然』1925年• 『確実性の探求』1929年• 『経験としての芸術』1934年• 『自由と文化』1935年• 『経験と教育』1938年• 『論理学』1938年• 『人間の諸問題』1946年 など デューイ以外の教育理論や教育法について興味を持たれた方は、こちらの記事もご覧ください。 まとめ• ジョン・デューイは、20世紀前半に活躍したアメリカの哲学者• デューイは『学校と社会』の中で、教育の中心は子ども自身であり、小さな社会とも言うべき学校で、「総合的な学習」や「問題解決型学習」のような統一されたカリキュラムを与えるべきだと主張した• 「プラグマティズム」も「公共性」の考え方も、どちらもアメリカ社会の特性を踏まえ、その未来を担う子どもを育てるという点に根本がある• 家庭で子どもに質問された時、すぐに答えを教えず、考え方のヒントを与えることが、子ども考える力を伸ばす• デューイの著書として『学校と社会』以外に、『民主主義と教育』『経験と自然』なども有名 以上、いかがでしたでしょうか。 一見難しいデューイの教育理論ですが、詳しく見てみれば、今の現代教育でも良く耳にする考え方だったように思われます。 今の教育のベースになっているということですね。 家庭での実践、我が家では分かってはいても出来ていない場面が多々あるので、少しずつでも実践していきたいものです。

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【教育原理】保育の偉人をちょっと変わった画像で覚えよう(2):コメニウス・ロック・デューイ

ジョン デューイ

本書『経験と教育』(1928年)で、デューイは 教育の本質論を展開する。 デューイはかなりの長生きで、晩年にいたるまで数多くの著作を残したが、なかでも『経験と教育』は彼の教育思想のポイントをコンパクトに伝えている。 教育を本質から考えよ デューイによれば、教育思想の歴史はひとつの対立によって貫かれている。 それは教育は内部からの発達とする見方と、外部からの形成だとする見方の対立だ。 素質の自然の発育を信じる派と、詰め込みを重視する派の対立、と言い換えてもいい。 教育理論の歴史は、教育は内部からの発達であるという考え方と、外部からの形成であるという考え方との間にみられる対立によって特徴づけられている。 またその歴史は、教育は自然的な素質を基礎におくという考え方と、教育は自然の性向を克服し、その代わりに外部からの圧力によって習得された習慣に置き替えられる過程である、という考え方との間の対立によって特徴づけられている。 この対立はしばしば、進歩主義教育と伝統的教育の対立として位置づけられてきた。 伝統的教育の教育観は、学校の任務は過去から継承されている知識や技能を生徒たちに正しく伝えることで、彼らを将来の生活に備えさせることにあるとする。 この伝統的教育に対する不満を背景に、進歩主義教育(新教育)が生まれてきた。 進歩主義教育からすれば、伝統的教育は大人の基準を生徒たちに押し付けている。 伝統的教育はドリルを使った教育を行うが、教科書から得られる知識は、生活の現場における経験とはかけ離れている。 それは結局のところ生徒の自由な活動を抑制し、個性の成長を押しとどめてしまうにすぎない…。 私はこの対立軸のどちらにも味方しない。 なぜなら私は教育を「主義」からではなく、その本質から再考しなければならないと考えるからだ。 新運動を推進している人たちは、たとえ「進歩主義」という主義に立っていたとしても、教育については、なんらかの主義という見地からではなく、「教育」それ自体の側面から再考しなければならない ところで、教育哲学は、 教育と「経験」の間に何かしら必然的な関係があるという前提に基づいている。 教育哲学の全体がそれに支えられているといっても過言ではない。 それゆえ経験がどのような本質をもっているかについて見ていく必要がある。 原理1:「経験の連続性」の原理 デューイによれば、経験において問題となるのは、その質だ。 どんな経験にも2つの側面がある。 ひとつは快不快の側面。 そしてもうひとつは、直接の快不快を越えて、それ以後の経験に影響を及ぼすという側面だ。 2つ目の原理をここでは 「経験の連続性」と名付けておきたい。 「経験の連続性」とは、経験は時間的な連続関係をもつため、先行する経験は後続する経験の質に影響を与えざるをえない、ということを意味している。 ところで、民主主義の諸理念(個人の自由など)が受け入れられているのは、それらが個人の経験の質を向上すると見なされているからだ。 それゆえ民主主義社会における教育の評価基準は、成長一般を促進するか抑制するかにある。 つまり民主主義社会において、経験の価値は、それ以後の経験に及ぼす影響力に基いてのみ測られるのだ。 経験というものはいずれもみな動きゆく動力なのである。 したがって、経験の価値は、経験が向かっていき、そこにはいり込んでいくという動きに基づいてのみ判断されうるものである。 ある経験の効果がすぐに現れてくることはない。 したがって教育は計画的に行われなければならない。 教育者の第一の任務は、生徒たちが将来により望ましい経験をもてるように現在の経験を整えることにある。 教育者は生徒の経験が向かっていく方向を把握し、どういった態度が連続的な成長を促進するかを知らなければならない。 また、これに加えて、教育者は生徒を個人として共感する理解力を持たなければならない。 原理2:「相互作用」の原理 次にデューイは 「相互作用」の原理について論じる。 デューイによれば、これは連続性とならぶ経験の本質だ。 経験は、客観的条件と内的条件の相互作用によって成り立っている。 そして、この相互作用に基いて 「状況」が成立する。 個人が世界のうちで生きるとは「状況」のなかで生きることを意味しているのだ。 ここで注意しなければならないが、状況のなかで生きるという際の「なかで」は、お金がサイフのなかにあるとか、コーヒーがコップのなかにあるというのとは意味が違う。 なぜなら「状況」の中で生きるとは、彼が対象もしくは他者と相互作用を行なうことを意味するからだ。 デューイによれば、私たちの一切の経験は、以上の2原理にもとづいている。 経験は「状況」のうちで絶えず再構成されている。 この 絶えざる再構成こそが経験の本質であり、また成長の本質でもある。 そうデューイは考える。 私たちの経験は絶えざる再構成のもとにある 生徒の未来を考慮せよ デューイによれば、「経験の連続性」と「相互作用」の原理は密接に関係している。 「状況」が移行するにつれて個人の経験世界が変化するとき、以前の経験が新たな「状況」を理解するための道具となるからだ。 個人がある状況のうちで学習した知識や技能は、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理するための道具となる。 経験はそこからフィードバックを得ることで、また別の新たな状況を処理できるようになる。 このプロセスは私たちの経験にとって本質的だ。 個人が一つの状況で知識や技能を学んだことは、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理する道具になる。 この過程は、生活と学習が続くかぎり進行する。 そうでなければ、経験の進路は無秩序なものになる。 こうした経験の連続性ゆえに、教育のそれぞれの過程においては生徒の未来が考慮されなければならない。 つまり教育は未来への準備として行われなければならない。 この点について、伝統的教育は、未来への準備と称して色々な教科を教えているが、教科の内容を単に習得することだけで未来に準備したことになるわけでは全くない。 なぜなら生徒は授業で実際に教えられている内容だけを学んでいるわけではなく、継続力や忍耐力もまた習得しており、むしろこれらのほうが将来において重要になるからだ。 おそらくあらゆる教育学的な誤りのうちで最大のものは、人はその時点で学ぶ特殊な事柄だけを学習しているという考え方である。 好きなことを持続させ、嫌いなことを耐え忍んでいく態度が形成される仕方にみられるような、附随的な学習のほうが、綴字(スペリング)の授業や地理や歴史の授業で学習することよりもはるかに重要なものである。 そのことはまた、現にしばしば重要なものである。 というのは、このような態度こそ、将来において基本的に重きをなすものだからである。 教育=ルールによって営まれる状況 デューイによれば、進歩主義教育は生徒たちを規則から解放し、素質をありのままに発展させることが彼らのためになるとする信念のもとで行われてきた。 しかしそれは誤りだ。 なぜなら教育は本質的に社会的なプロセスであり、社会はいくらかの統制のもとで営まれているゲームだからだ。 そうデューイは主張する。 事実上否定できないのは、一般的に人びとがみずからの自由を制限するような社会的統制によく従っており、しかもそれを誰もその統制を否定しようとしていないことだ。 そうした状況には少なくとも3つの特徴がある。 ひとつはルール(規則)がその状況の一部であること。 その状況を「ゲーム」として捉えると、それが合理的に営まれているかぎり、ゲームのプレーヤーはただゲームを行なっていると感じているだけで、ルールを押しつけられているとは感じていない。 もうひとつは、プレーヤーが状況に対して不満を抱いている場合、そこで不満の対象となっているのは規則それ自体ではなく、規則違反、つまりアンフェアな行為に対してであること。 そして3つ目は、ルールは標準化されており、何がフェアで何がアンフェアかについての一般的な了解が成立していること。 教育とは、これら3つの本質をもつ状況であり、社会的なプロセスである。 この観点から教師の意義を捉え直してみると、教師は生徒たちを支配する独裁者ではなく、集団の活動の指導者であり、ゲームがきちんと営まれているかを判断する公平なレフリーでなければならないことが明らかになる。 教育が経験に基礎づけられ、教育的経験が社会過程であるとみられるとき、そこにみられる状況は根本的に一変してくる。 つまり、教師は外部的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることになるのである。 もちろん私はすべての生徒がゲームになじめると思うほど浅はかではない。 ゲームに参加できない生徒がいるのは事実だ。 彼らをも包括するようなルールを定めるのは難しいので、その場合は個別対応を行えばよい。 自由となるためには=欲望の延期 それゆえ生徒たちを単に規則から解放すればいいわけではない。 彼らが本当に自由となるためには、知性によって自分の衝動や願望をコントロールできる能力を身につけることが必要だ。 デューイはそう続ける。 自由について最もありきたりな誤りは、身体的な自由、つまり拘禁せず運動させる自由と、知性の自由を混同してしまうことだ。 最も重要な自由は 「知性の自由」だ。 「知性の自由」によって、何が本当に価値あるかを判断することが出来るからだ。 身体的な自由は、吟味された目的を実行するための条件だ。 それは目的を立てたり判断したりする 力としての自由を達成するための手段であって、最終的な目的ではない。 制限から解放される自由は、つまり自由の消極的な側面は、力である自由への手段としてのみ称賛されるべきものであるからである。 その力は、目的を形成する力であり、賢明に判断する力であり、願望を実践したことからの結果によって願望を評価する力であり、選定された目的を実施する手段を選択し、秩序あるものにする力である。 ではこの「目的」は、一体どのようにして形成されるのだろうか? 目的とは衝動から得られる「結果の見通し」のことだ。 結果を見通すためには知性の働きが必要となる。 それゆえ目的は、状況の観察、過去の状況についての知識、そして観察結果と状況についての知識を結合する判断力の働きによって形成される。 欲望は知的な予想と結び付けられるときに、そのアイディアを推進する力となる。 ただ単に衝動によってだけでは目的を達成することはできない。 したがって教師は生徒に、観察と判断を行うまでの間、初期の欲望を延期する能力を身につけさせることが重要だ。 そのうえで、生徒が自分の欲望をうまく利用できる点を見出し、それを彼に示唆する必要がある。 教師による示唆は、生徒が自由を実現するための出発点として働くのだ。 教材は生徒の経験に応用可能なものに 最後にデューイは、具体的にどのような仕方で授業が行われるべきかについて論じている。 教育は次のようなプロセスを取るのが理想的だ。 経験に基づいて仮説を立てる• 結果によって仮説を検証する• 検証結果を反省して次の経験に備える このように経験と学習を交互に行えば、生徒は自分の経験の範囲をよく拡大させることができる。 いずれにしても、生徒の学ぶ事実と法則が日常生活に沿った仕方で応用されるように、教材は教えられなければならない。 教材は生徒の日常生活の経験の内に求められなければならず、生徒の成長に合わせて教材は発展していかなければならないのだ。 生徒は科学的教材に引き合わされるべきであり、その教材のもつ事実と法則が、日常の社会生活になじんだかたちで応用されるよう、その手ほどきがなされなければならない。 このことこそ、健全な教育的原理というものである。 この方法を遵守することは、科学それ自体を理解するうえでの最も直接的な方途であるばかりではなく、生徒たちが成熟するにつれて、現存する社会の経済的、産業的な諸問題を理解するうえで、最も確かな方途である。 何のための成長? デューイの教育論はかなり本質的で、学校教育の思想的バックボーンとしていまなお効力をもっている。 デューイの教育論は、学校教育を社会、とりわけ民主主義社会の内部に位置づけている点で、ただの教育方法論とは一線を画している。 ただ、生徒は一体何のために成長しなければならないのかについて、デューイは上手く答えられていない。 成長と言うだけでは、具体的にどのような目的のために成長するべきなのか、また、何が十分に成長したと判断するための基準なのかは分からない。 それゆえ各教育段階で最低限教えられるべき内容を規定できない。 とはいえ、教育が生徒を自由にするものでなければならないという直観は私たちを強く納得させる。 この点に関してはヘーゲルの考察が参考になる。 ヘーゲルはで、 自由は他者による承認を必要とすると論じていた。 私が他者を一個の人格として承認すると同時に、他者が私を人格として承認する。 この「人格の相互承認」が自由を関係性のうちで実現するために必要だ、と。 市民社会の基本理念は、個々の人格性における平等にある。 教育は生徒に、他者が自分が同じ人格であり、出自や財産で差別してはならないこと(そうすることは不当である)を生徒たちに了解させる必要がある。 デューイの「欲望の延期」は、この目的を達成するために有効に働くはずだ。

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