家紋 うけ。 苗字から家紋を調べる方法!検索に便利サイトで家の由来・ルーツを探る!家紋一覧表&名字家紋ランキング100

毎日新聞 クロスワード第612回答え【くらしナビ2020年3月7日】

家紋 うけ

いつのころか三河国加茂郡足助庄成瀬郷に居住し、成瀬を家号とした。 成瀬氏は松平初代の親氏、または二代泰親のときに松平氏に属したというから、三河譜代では古い家柄である。 安城に入部した松平四代親忠に付属して、木戸村、六名郷に住した。 正頼のとき家康の祖父清康に仕え、大久保忠俊・林藤助などともに、主家広忠の岡崎還城に功労があり、三十五貫文の地を与えられた。 嫡子正義は使番、御旗奉行をつとめ、六名郷において二百五十貫文を与えられた。 永禄五年(1562)、同僚と争論のうえ討ち果たして遠江国に出奔した。 三河一向一揆の知らせを聞き、三河国に帰り、ただちに本宗寺に行き妻子ともども岡崎城に馳せ参じ帰参を許される。 のち諸合戦で軍功を顕わし、岡崎で五十貫文の地を与えられた。 正成の父正一はさきの正義の弟になるが、三河譜代としては代わった経歴をもっている。 永禄三年、ある事情で武田信玄に仕えたが、ひそかに甲府を退出して北条氏に属して軍功があった。 ところが、他家に「遊士」することが禁止されるにあたって三河に帰ったという。 関東入国後、二千百石の地を与えられ、徳川氏の直轄領七万石の代官をつとめた。 長男正成は、幼少より徳川家康に仕え、天正十二年(1584)の長久手の合戦には、小姓組に属して出陣している。 年齢わづか十七歳でしかなかったが、勇敢にも敵陣へ突入して兜首をひとつあげた。 家康が首実権してる最中、味方の先遣隊が、敵の猛攻撃をうけてたじろいでいるのを見て、制止されるのを払い除けて、真一文字に敵中にとって返し、ふたたび兜首をあげたという。 役後、根来鉄砲衆五十人を預けられる。 十七歳で一軍の将となったのは正成だけだという。 天正十八年の小田原攻めで武功を重ね、関東入国後、下総栗原四千石の領地を賜った。 このころ全国統一の覇業を押し進める秀吉が、大坂城で徳川家臣団の馬揃えを検分した。 このとき、正成の堂々たる武者ぶりが秀吉の目にとまった。 秀吉は家康に、正成を五万石の俸禄で召し抱えたいと申し入れた。 この話を家康から聞かされた正成は涙を流して恨み事を述べ「ぜひにもといわれるならば、切腹仕る」と開きなおり、結局このことは沙汰止みとなった。 が、正成に対する家康の信頼は以前にも増して、いよいよ深くなったという。 関ヶ原の戦いでは旗本の先手となって活躍している。 戦後、老中に抜擢され、本多正純らと国政に従事し、甲斐国のうちに二万石を加えられた。 慶長十二年、正成は家康九男で尾張の徳川義直の傅役となった。 大坂の陣では、尾張徳川家の付家老として活躍。 戦後、尾張犬山城三万石を賜った。 ところで、『姓氏家系大辞典』には、清和源氏新田氏族説が紹介されている。 そして、国重は二条良基五世の孫国平の子という説をも述べているのである。 この説に従えば、成瀬氏は源姓ということになる。

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天下の大姓"鈴木"氏の家紋 天下の大姓"鈴木"氏の家紋 世界で一番名字の多いのが日本。 その日本のなかで、ずばぬけて多い名字が「鈴木」で、二百万人とも。 鈴木の来歴は、気が遠くなるほど古い。 「古事記」や「日本書記」などの神代説話のなかに、すでに登場している。 始祖、饒速日命五世の孫、千翁命の血脈をうけ、熊野神に稲穂を捧げて穂積の姓を賜った鈴木氏は、以来熊野三党 宇井・鈴木・榎本 のひとつとして、勢威大いにふるったと古書に伝える。 熊野三千六百峰の大山塊から発した熊野大権現の社家・鈴木氏、のち紀州の藤白の地に移り、日本諸国に散在する「鈴木」の総本家となった。 家紋は「稲穂丸」、替紋は「藤の丸」、幕紋は「熊野烏」であった。 この熊野鈴木氏の末裔は、諸国各地でさまざまな誕生をみせ、その家紋もまた多種多様なひろがりをみせている。 「稲」は熊野神に稲穂を捧げて、穂積の姓を賜った故事による。 「藤」は熊野三山の初代長官・熊野別当の藤原氏のゆかり。 「なぎ」の紋は、熊野大権現の神木。 「鈴」は熊野神を迎え先導するとき、聖なる木に鈴をつけ、その音で魔を払ったという。 「烏」は熊野神の使者として仕え、牛王宝印として刷られ、熊野起請文として史上有名。 「洲浜」は、熊野三山の奥の院とされる玉置神社の神紋である。 このように鈴木氏ゆかりの家紋は、いずれも熊野に発したものが多い。 この鈴木総本家で、有名なのは源義経に仕えて働いた鈴木重家、その弟亀井六郎重清、奥州平泉に下る途中、 病のため三河の地にとどまった兄弟の伯父鈴木重次がいる。 重次は、のちの徳川譜代三河鈴木党の祖となった。 このほか戦国時代に雑賀鉄砲衆をひきいて紀州に勢力をもった、雑賀孫市がいる。 孫市、本姓は鈴木、陣幕紋は熊野烏、 三本足の烏であった。 ……… [資料:歴史読本432号]. 龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。 これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!.

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中院通方までの系図は、家系図を参照。 中院通方 顕成 親成 師清 (村上山城守) 女子 (結城親朝養育。 安東太郎貞季妻) 顕信 信親 (右中将。 正四位下) 守親 親能 親統 顕能〔 伊勢国司家。 中宮) 通房 持定 顕持 顕光 (顕統子云々) 定能 定統 顕統 雅持 親家 (醍醐寺) 実助 (醍醐寺。 金剛王院。 大僧正。 東寺二長者。 二条師忠猶子〔金剛王院門跡列祖次第〕) 源助 女子 (護良親王妾。 尊卑分脈作雅家子。 ) 女子 (従三位親子。 後醍醐帝局民部卿。 楞厳院検校。 天台座主。 大僧正護持。 寛政重修諸家譜・続群書類従巻第百三十五星合系図によれば、北畠満雅の子。 実織田信長二男。 北畠三助。 左中将。 従四位下) 具藤 (藤教。 式部丸 北畠式部大輔。 同長野次郎於田丸被殺) 具成 (少将) 女子 (堀江治部大輔教賢妻。 元和5年7月14日(1619年8月23日)卒。 法名清春) 女子 (田丸中務大輔具安妻) 女子 (和州吉野飯貝門跡舎弟〔系図纂要作妻〕) 女子 (津川玄蕃充妻) 女子 (織田信雄室。 同上) 具親 (初め興福寺東門院僧侶。 後、還俗。 宮内大輔。 母六角承禎女〔星合系図〕。 天正14年6月9日(1586年7月25日)卒。 速門院寂道蘇心不叶常入) 具政 (木造俊茂養子) 親泰 (頼房。 正五位下〔系図纂要〕。 世俗号太肥御所〔北畠系図〕。 天文16 1547 年生。 天正8年正月5日(ユリウス暦:1580年1月21日)卒。 松壑林公〔系図纂要〕。 [ 建保3 1215 年 〜 文永11年3月22日(ユリウス暦:1274年4月30日) ] 中院通方男。 母源雅頼女。 号・万里小路、北畠。 法名・如覚。 大雅院高山龍松 〔系図纂要・北畠家御代々御法名〕。 宝治元年12月8日(ユリウス暦:1248年1月5日)任参議。 文永5年10月5日(ユリウス暦:1268年11月10日)出家。 正二位・権大納言。 [ 寛元2 1244 年 〜 正和4年10月6日(ユリウス暦:1315年11月3日) ] 雅家一男。 母鷹司頼平女。 法名・覚円。 源徳院大通覚円 〔系図纂要・北畠家御代々御法名〕。 弘長2年12月21日(ユリウス暦:1263年2月1日)叙従三位。 正応2年9月7日(ユリウス暦:1289年9月22日)出家。 正二位・権大納言。 尊卑分脈異本作正和4年4月16日(ユリウス暦:1315年5月19日)。 [ 文永7 1270 年 〜 元亨2年正月13日(ユリウス暦:1322年1月30日) ] 師親男。 母宗顕法印女 〔系図纂要〕。 法名・経覚。 法隆院殿円超経覚大居士 〔北畠家御代々御法名〕。 正応4年3月25日(ユリウス暦:1291年4月25日)叙従三位。 徳治2年7月28日(ユリウス暦:1307年8月26日)出家。 正二位・権大納言。 [ ? 〜 永仁4年4月3日(ユリウス暦:1296年5月6日) ] 雅家二男。 母平信繁女。 永仁3年8月5日(ユリウス暦:1295年9月15日)叙従三位。 従三位・非参議。 [ 永仁元 1293 年 〜 ? ] 師重男。 母左少将隆重女。 祖父師親為子。 法名・宗去〔 北畠系図作宗玄。 系図纂要作宗意覚元〕。 天徳院台宗覚元 〔系図纂要〕。 一品准大臣南朝詔云々 〔尊卑分脈・北畠系図〕。 延慶元年11月8日(ユリウス暦:1308年12月20日)叙従三位。 元徳2年9月17日(ユリウス暦:1330年10月29日)出家。 正二位・権大納言。 (本名師国) [ 永仁4 1296 年 〜 ? ] 祖・ 滝川雄利の出自に関しては、諸説あって一定しない。 系図纂要にはの 子として記載されているが、 寛政重修諸家譜によれば、「下総守雄利、瀧川伊予守一益が家号をうけて 瀧川を称す。 寛永系図、紀氏瀧川の末に収め、木造大納言俊康より連綿の系をしるし、 雄利は左中将具康が男といひ今の呈譜は、中将具政が二男、或三男。 母は木造俊茂が 女なり・・・」とある。 長五郎。 信濃守。 従五位下。 母正利女。 寛永16 1639 年生。 寛文13年7月18日(1673年8月29日)卒。 法名紹了。 兄利元養子) 具章〔具章孫〕 頼利 (采女。 左衛門。 土岐市右衛門頼久養子) 義利 (尉之助。 一本正利〔系図纂要〕。 兵部大輔。 三郎兵衛。 下総守。 従五位下。 号一路。 刑部卿。 初木造源浄院僧還俗〔系図纂要〕。 天文12 1543 年生〔寛政重修諸家譜〕。 慶長15年2月26日(1610年3月21日)卒。 三英周傑桂徳院。 葬于片野泰寧寺。 勘右衛門。 壱岐守。 従五位下。 天正18 1590 年生。 寛永2年11月7日(1625年12月6日)卒。 法名周桃。 葬地同雄利。 室青山伯耆守忠俊女。 勘兵衛。 長門守。 従五位下。 実土岐山城守定義二男。 母諏訪因幡守頼水女。 慶長14 1609 年生。 延宝5年4月25日(1677年5月26日)卒。 法名宗興〔系図纂要作澄清院雲外宗与〕。 葬地同雄利。 室正利女。 左兵衛。 若狭守。 長門守。 越前守。 隠岐守。 従五位下。 寛永20 1643 年生。 宝永7年6月24日(1710年7月20日)卒。 法名義信。 葬于下谷広徳寺桂徳院。 室服部一郎右衛門保忠女。 実土岐左衛門頼利長男。 母稲葉十左衛門通照女。 宝永7年8月22日(1710年9月15日)家督。 享保6年12月12日(1722年1月28日)致仕。 享保12年10月3日(1727年11月15日)卒。 法名宗常。 室利錦女。 本サイトの公卿に関するデータは、 東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、 公卿補任(新訂増補国史大系53-57 吉川弘文館。 国史大系第9-11 経済雑誌社)、 尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下 吉川弘文館。 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12 吉川弘文館)、 公卿諸家系図(土橋定代。 続群書類従完成会。 知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。 家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、 実地調査はおこなっておりません。 家業に関しては、諸家々業記、有職袖中鈔を基本とし、その他諸本で補完しました。 家紋に関しては、 雲上明覧大全 〔慶応4 1868 年版〕を基本として、 日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。 年数の表記に関しては、ユリウス暦1582年10月4日までをユリウス暦に換算し、 その翌日からをグレゴリオ暦に換算してあります。 ユリウス暦の場合は、西暦の頭にユリウス暦であることを表記してあります。 ユリウス暦の表記がないものは、グレゴリオ暦であることを示します。 和暦の改元の表記に関しては、改元した年の改元日から新元号の元年としました。 父母名などを表記する場合、公卿に関しては、官位官職、卿・公の尊称は省略しました。 本サイトの情報を利用したことによって生じた、いかなる損害に対しても管理人は、補償の責任がないものとさせていただきます。 当サイトへのリンクは、どのページに対してもご自由になさってくださって結構です。 また、リンクしていただいた際のご報告も不要です。

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