妻を抱くのを苦痛に感じています。 老いたからなのか、見飽きたからなのか、子供が大きくなったからなのか、 その全てなのかわかりませんが、妻としたくないです。 でも、妻は違うみたいです。 求められることがあり困っています。 無視しても何も言ってはきませんが、 少しくらいしたらまた合図(子供ができた時に2人の間で決めていた合図です)を出してきます。 しつこい場合は、相手をしてあげますが、 ストレスが貯まります。 それに発たないで止めることも多くなりました。 私自身性欲が減ってきているのを感じます。 でも若い女性を見るとやりたいと思いますし、 今も1カ月に1回くらいのペースでは風俗にも行っています。 その時できなかったことはありません。 風俗に行こうと思っている週に合図を出されても挿入してあげることはできません。 妻はおもちゃは嫌がります。 お前も風俗にでも行けと思ってしまいます。 正直なところ、もう妻は女だとは思えません。 何か良い解決方法はありませんか? 私ばかりが我慢するのは夫婦としておかしいと思います。 補足勃起できなくなったというのは良いですね。 妻限定かもしれませんが、実際そうのとおりです。 風俗に行っていることは妻には話しておりません。 それが最低限のマナーだと思います。 私はおじいちゃんという年齢ではありません。 私は40代で、妻は30代です。 このままの状態を続ける自信がないなら、話し合うしかないと思います。 正直に話してみたらどうですか。 ・もう家族になってしまって、性欲を感じることができない ・お互いに性処理は外で済ますことにしたい。 ・もちろん奥さんも外で済ますことに同意する。 女性は性差により風俗に抵抗がある人が大多数なので、出会い系などでセフレを作るパターンも可とする。 ただし旦那さんは風俗で済ませること。 ・性処理にかかる費用(主に旦那さんの風俗代)は家計から捻出する。 こんな感じで。 正直に話す以外に解決方法ってないと思いますよ。 奥さんがセックスレスに納得するならいいですが、それが無理なら新しい方法を一緒に考えるしかないですよね。 EDではなく、異性として認識できなくなったということなので、病院やカウンセリングでどうこうという問題でもないですし。
次の老いは 劣化 でなく、成熟だ。 生れたときから、 胎内にいるときから、 「老いる」という運動が始まった。 「老い」というものが、突然降ってくるわけはない。 成熟していく・・・、 心身共に、いつまでも、いつまでも。 - ・ - ・ - ・ - ・ - ・ - ・ - ・ - いま、社会は急激に変化しています。 価値観が変わり、生き方が変わり、社会の基本的な通 念が根底からひっくり返るという、 パラダイム・シフトの時代を迎えています。 『機能を有する身体(からだ)、氣を有する生命(いのち)場、 ひとのぬくもりを有する志・想い(こころ)』を一体・統体ととらえたとき、 ひととしての存在価値が生まれる。 この価値を高めるために、 機能要素の定量的なマネジメントにとどまることなく、 自然の摂理・関係にすなおな行為・行動と、 課題構想力を高め、すべてを包み込む こころの取り組みが重要になってきている。 自然界の一員として、 この取り組みを活き活きとした生活・人生、さらには社会の課題解決につなげたいと想います。 - ・ - ・ - ・ - ・ - ・ - ・ - ・ - ホリスティックとは、全体の、包括的なという意味で、「全体は部分の寄せ集めではない」という哲学的価値観を示す言葉です。 人も動植物も自然環境に生きる者すべては、有機体です。 私たちの体は臓器を寄せ集めてできているわけではありません。 ホリスティック(Holistic)という言葉は、ギリシャ語で「全体性」を意味する「ホロス(Holos)」を語源としています。 そこから派生した言葉には、Whole(全体)、Heal(癒す)、Health(健康)、Holy(聖なる)…などがあり、健康-Health-という言葉自体が、もともと「全体」に根ざしています。 これまでの科学や医学は、ものごとを細かな要素や機能に還元し、生命現象までも分割・分離してきました。 その結果、私たちの健康や生活環境、社会の仕組みまでも縦割りに分断され、全体としてのつながりや働き(相互作用)が極めて見えにくくなってしまっています。 それが結果的にさまざまなストレス要因となって、私たちの自然治癒力を弱めているともいえます。 人間を身体・心・生命からなる統合体として捉え、社会・自然・宇宙と繋がり調和し、全人的・全体的に良好な状態を健康という健康観です。 1.人間を「身体・心・生命が有機的に統合した生命体」として捉え、 社会・自然・宇宙のすべてと繋がり調和し全体的にwell-beingな 状態を健康とみなすという健康観に立脚します。 2.生命力・自然治癒力を癒しの原点におきます。 3.自ら癒す姿勢を基本とします。 4.西洋医学・健康学の利点をいかしながら、種々の方法を選択・統合します。 5.生から死のプロセスの中で、老い・病気・障害などの深い意味に気づき、 より深い充足感のある自己実現をめざします。 現代の医学は各疾患の根治に主眼が置かれることから、手術や薬物を用いて病気本来の原因を取り除くのを目的とする治療になりがちです。 そのため患者のQOL(Quality of Life:生活の質)が二の次にされるケースもときとして見受けられます。 <これからの医療(予防医学)> 一次予防 : 病気にならならないための生活習慣、食習慣の改善。 免疫力、自己治癒力の強化。 二次予防 : 未病を治す。 (早期発見と治療) 病気の予防をするためには、一人一人が、 病院や医者まかせにはしないで、自分の健康は自分で守るとうい意識と、そのための知識を身につけていかなければなりません。 <部分最適から全体最適へ> 統合(補完代替)医療(Complementary and Alternative Medicine) (1)自然治癒力、免疫力の向上を目指す (2)ライフスタイルの改善を促す (3)個人差を重視し個別的な有効性を評価する ・アロマセラピー ・ヒーリング ・カウンセリング ・ホルミシス療法 ・マインドスピリット ・ヨーガ ・食養生 ・デトックス 誰か他人に治してもらうのではなく、自分自身で治すという自立した姿勢で病気に立ち向かうことにより、自己治癒力を向上させる方法です。 <生活リズム・スタイル> 昼間はよく体を動かし、夜は質・量ともにしっかりと睡眠をとる。 無力なのではなく、おだやかなのだ。 依存的なのではなく、親しみやすいのだ。 外見に魅力がないのではなく、内面が深いのだ。 そして、頭の回りが鈍いのではなく、思慮深いのだ。 「老いの神話」を打ち破る作業は、すでに紀元前1世紀に古代ローマの賢人キケロが『老境について』という本で行っています。 キケロは大カトーに託して、老年について次のようにポジティブに語っています。 老年になれば確かに「青春と活気」を必要とする若者の仕事からは引退しなければならないが、世の中には老人に適した多くの仕事がある。 むしろ偉大な仕事は老人の「知恵や知識」によって成し遂げられるのであるとキケロは宣言しています。 また、老人になると物忘れがひどくなりぼけてくるという偏見に対しては、熱意と活動とが持続しているかぎり、老人にはその知力がとどまっているのだと反論しています。 さらに、肉体的能力の衰えについては衰えをまったく否定するわけではなく、むしろ老年にふさわしい肉体的健康をポジティブに受け入れることが大切であるとキケロは強調しています。 自分がいま、青年の持つ体力を実際欲しがっていないのは、あたかも青年時代に雄牛や象の持っている体力を欲しがっていなかったのと同じである。 自分が持っているものを使うと、またなにごとをなすにしても、自分の力にふさわしいことをなすのが正常なことだ。 キケロはそう言うのです。 老人は、失われた若者の体力を基準にして老年の非力を嘆くのではなく、現在の自分をあるがままに肯定すること、年輪によって育まれた知恵と見識を発揮することに現在を生きることの意義を見いだしうること、これがキケロが力説してやまない点でした。 『老境について』は老年論の古典となり、キケロの老人観はヨーロッパの伝統として生き続けてきました。 他にも、世界中のさまざまな文化が「老い」から「死」へのプロセスをポジティブにとらえています。 日本の神道では、「老い」とは人が神に近づく状態です。 神への最短距離にいる人間のことを「翁(おきな)」と呼びます。 また7歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。 つまり、人生の両端にあたる高齢者と子どもが神に近く、そのあいだが人間の時代となります。 ですから神道では、神に近づく「老い」は価値を持っており、高齢者はいつでも尊敬される存在であるといえます。 高齢者が神の世界に近づいていくので、「神用語」を話すようになり、そのために一般の人間にはわからなくなるのだと考えるそうです。 これほど「老いの神話」を無化して、「老い」をめでたい祝いととらえるポジティブな考え方があるでしょうか。 「老い」とは人生のグランドステージを一段ずつ上がっていって翁として神に近づいていく「神化」にほかならないのです。 そして、その神化に至るまでの道のりは、人間という生物としての競争を勝ち抜いてきた結果でもあります。 かつて古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「哲学とは、死の学びである」と言いました。 わたしは「死の学び」である哲学の実践として2つの方法があると思います。 一つは、他人のお葬式に参列すること。 もう一つは、自分の長寿祝いを行うこと。 神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を思い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。 もちろん、それは自殺などの問題とはまったく無縁な、ポジティブな「死」の覚悟です。 人は長寿祝いで「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持つ。 また、翁となった自分は、死後、神となって愛する子孫たちを守っていくという覚悟を持つ。 祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのです。 その意味で、長寿祝いとは「生前葬」でもあります。 わたしは、本当の「老いの神話」とは、高齢者のみじめで差別に満ちた物語などではないと思っています。 年齢を重ねるごとに知恵と見識を発揮し、尊敬される人間になり、神に近づいていく。 この愉快な物語こそ、本当の「老いの神話」ではないでしょうか。
次の人生百年時代などと、うかれはじめたのはいつごろだったろう。 これはおめでたいことなのか。 最初聞いたときはお上が年金の支払い時期を遅らす ための作戦ではないのかと疑った。 庶民の背中を鞭打って70歳までとにもかくに も働いてくれ。 そうしないとあなたの人生どうなるかわからんよというおどし。 それに不安商法を得意とする、金融関係、医療関係(医者や薬品会社や健康食品 会社)、保険企業などがむらがった。 不安をあおりいつのまにやら人生百年は 常識になった。 でもちょっと待ってくれ。 もし百年生物的に生きるとして、最後の 20年間即ち80歳ー100歳のあいだ、ひとは健康に暮らしていけるのか。 ふたりのうち ひとりはガンになるといわれているのに。 70歳台は身近に掃いて捨てるほどいるからどんな塩梅なのかはだいたいわかる。 でも80歳以降のかたがたはどうなんだろう。 三浦雄一郎とか加山雄三とか瀬戸内 寂聴とか元気で活躍されている人もいるが、そういう「怪物」はさておき、普通の 人の話が聞きたい。 80歳を過ぎると普通の人の体の具合と心象風景はどうなって いくのか知りたい。 ということで現在85歳の黒井千次氏の「生活と意見」が非常に 参考になる。 当書は黒井氏が読売新聞に月1回連載したエッセーを集めたもので そこからいろんなことを学べる。 私が(個人的に)気になったいくつかを並べる。 〇 よく転ぶ 老人になるとつまずいてよく転ぶ。 ここではそういう意味ではなくて、 「なぜ転んだのか」全くおもいあたることがないのに転ぶ。 例えば、手ぶらで緩い 坂道を下っている時突然転ぶ。 自発的転倒。 これが恐い。 突然のことで手で守る ことができないから顔をアスファルトにぶつける。 最近80歳台のドライバーが 自分では正しく運転していたのに「なぜか」車が暴走して人を轢くといういたま しい事故が続いた。 これなんかこの変形かもしれない。 自分の運転や判断は まちがいないのになぜか機械が言うことを聞いてくれない・・。 〇 しゃがむと立てない 曲げた腰が伸ばせない。 取っ手がないと立てない。 尻もちをついたらそのまま たちあがれない。 へたをすると浴槽に閉じ込められることになる。 これは恐い。 〇 散歩はふわふわとろとろ、浮揚しているよう 運動のための散歩のように、歩くこと自体が目的であるような、いわゆる 足の運びのための歩行とでもいった動きの中で、浮揚感が発生する。 〇 病が治りにくい 病気にかかると、病は治りにくく、恢復はしてもそれ以前の状態への完全復帰 ではなく、7割か8割の線にとどまる。 からだの劣化は連続的に劣化するのでは なく、ある時ドサッと落ち込む。 大きい病気やけがをした時はそのドサッの スケールはドカンに変る。 まあ、悪いことばかりではない。 〇 やわらかな空気 朝、目覚めてもう起きなければと考え、ベッドに坐って足を床に垂らした時、 ふとなにやらとりわけ柔らかな空気、優しい時間の環のようなものに取り巻かれて いる感じがする。 幼い頃の断片が蘇る。 登場人物は母親だったり親戚だったり するがみんなすでに亡くなっている。 でも鮮明に皮膚感覚で覚えている。 とても自然で優しい感情。 著者も述べているように、私たちは80歳台、90歳台をこうして生きていったら いいというような指針はなにもない。 あれこれ悩んでみても結局辿り着くのは、 「他人は他人であり、自分は自分であって、夫々が自らにふさわしい老い方をする より他にないのではないか」というなんともシマリのない結論なのである。 でもそれで納得。 そうだよね。 それしかないよね。 「なか見!検索」が出来ないので参考のため目次を記します。 第1章:新旧の不自由を抱えて 第2章:もう運転しないのか 第3章:降りることへの恐れ 第4章:老いることは知ること 「老いのゆくえ」という書名に引かれ予約購入。 哲学的な内容の書物かと思っていたが、1932年5月28日生まれの著者が「可能なかぎり率直に、老いていく自分を描き、その感覚や感情を記していった」本でした。 書店では決して買わない類の本。 しかし、「老いるとは自分が具体的にどうなっていくか教えてくれる」本。 「NHK きょうの健康」を定期購読しているが確かに書いてない。 両親の老いる姿を見て多少知っているつもりでもそれ以外の人について教えてくれる本は意外に少ない。 そういう意味で買って損のない本。 著者の年齢が87歳であるので80台後半になると本書に記されたようになるのかというとそれは甘い。 日本人の男性の平均寿命は81歳、健康寿命は72歳。 著者の年齢では鬼籍に入っている人の方が多いと思われるが、本書が書ける位であるから健康寿命にも達していない。 普通の人より少なくとも15歳以上若いのである。 従って、70歳前後(早ければ40、50台)になると本書のように老いる事を想定して読みたいものである。 「どんなにあたたかな分析と同情的な観察を行っても、老いを迎えた人々は過去に生きるしかないし、社会はその存在を必要としていないし、自己がまだ社会的貢献できると誤解しているとすればそれこそが老いの証左だし、世界の変化は速いので老人は日々知らないことが増えてくる」と62歳のシモ-ヌ・ボーヴォワ-ルは、主著「老い」の中で断じている。 当たっているだけに、悪魔の手さばきのような気味悪さを感じる大作の「老い」である。 62歳のボ-ヴォア-ル 78歳で死去 にとって、当時のフランスの平均寿命 男性68歳、女性76歳 を見るかぎり、60歳とは、華やぐ未来のない、死ぬまでの時間が刻々と刻まれていくだけの余生の入口でしかなかった、と理解することはできる。 しかし、62歳の人が先をみるのではなく、85歳まで生きてしまった人が、60代、70代、そして80代初期を振り返ってみるときに、老いとはなにかについて、別の確度から再点検する道があるのではないか。 そんなことを考えさせる黒井千次の老いに関する一連の著作が新聞紙上で人気です。 最新刊は、「老いのゆくえ」 中央新書 2019. 「老いのゆくえ」は85歳の著者が老いゆえに遭遇する日常の失敗や事件を丁寧に書き連ねたものであり、老いとは何か、についてこざかしい分析をしているわけではありません。 そこが、この本がみんなに好意的に受け入れられる秘密のようだ。 朝起きて関節を伸ばすのに時間がかかる、一度かがむと手すりがないと起き上がれない、靴下がはけない、よろける、ものを落とす、など歳をとって出会う悲喜劇が数十のエッセイに書かれている。 もう、85歳まで生きちゃったのだから、いまさら、60歳過ぎたら社会に居場所がない、なんて悲観することもなく、率直に老いを受け入れている。 「年をとるのは生きている以上しかたがない・・ただ不服なのはそれがいつ始まったかはっきりしない点である」。 著者は、電車の優先席に座っていて、やや年寄りの人が乗ってくると席を立つべきかどうか、いまでも迷うという。 自分は 85歳かもしれないけれど まだ若いんだ、と思ってしまう。 レスランや街で年配の人をみると、「おじいさん」「おばあさん」とつい思って心の中で呼んでしまうけれど、もちろん自分は「おじいさんではない」、とかたくなに信じている。 80歳を過ぎているなんて、「ウソだろう! 自分の人生のこの先を、つまり余生を、ボーヴォア-ルのように分析することはできる。 それは、残された時間を数える、ということだ。 しかし、実際にはみんなその時間を生きてしまうのだ。 生きてみて、なんだ、こんなことか、と思えれば、あれこれ悩むこともない。 黒井千次さんのこのシリーズ、読売新聞に月1回連載しているものをまとめたもので、 これで3冊目となります。 内容は、黒井さんの日常生活の中で、老いに関して感じたことを綴ったものになっています。 私は、やっと古希に達するかどうかという年ですから、 70代、まして80代の自分がどうなるのかは、想像の範疇にないので、 そういった意味で本書は非常に参考になるのかな・・・ただしそれまで生きていればの話ですが・・。 黒井さんによると、80代になってくると、よくけつまずき転ぶ、腰が曲がりににくくなり、 靴下をはいたり、足の爪を切るのが非常に困難になる、 病気がちになり、しかも治りにくい・・・・・、 当然視力や聴力が低下し、運動も緩慢になる、ははいいとこ全くありませんね!! 私の父親も結構長寿でしたから、大体この辺りは想像がつきますね。 そして、私の父親の場合は、記憶力が衰え、勘違いが多くなり、 しかもそれを人のせいにして怒る、攻撃的になる、ケチになる、等ということもありました。 しかし、人間長生きすればだれでも老いていくわけで、 本書の帯にもあるように、 結局のところ現状を容認し、自らにふさわしい老い方をするより他にないのでしょうね!! 八十代半ばの著者があとがきで書いています。 〈可能なかぎり率直に、老いていく自分を描き、その感覚や感情を記していくことを目指した。 したがって、ここには老いに対する手立てや、深遠な考察などはない。 書くに際して心したのは、正直に自分の老いそのものを描くことだった。 恥ずかしがってはいけない、とひたすら自分にいいきかせた〉と。 そのとおりで、ここに書かれているのは、まさに老いそのものの老化報告とでもいえそうな事例が、これでもか、これでもかといわんばかりに、じつに具体的に、詳細に、正確に書かれています。 同じ世代の私には、新しい発見もなく、なんの変哲もないエッセイに思えたのは、私自身がリアルタイムで毎日、毎日、体験している日常が描かれていたからです。 そこに本書の希少価値があると思いました。 美しく老いるには、とか、いかに老いに向きあうか、といった教条的な類書が眼につきますが、老いというのはそんな美しいものでも幻想を抱かせるような甘いものでもありません。 ただ醜悪で、希望のない絶望の日々の連続です。 先にあるのは〈死〉だけ……、これが老いの現実です。 若い人にこそ読んでほしいエッセイです。 老いるということの無常、哀しみ、絶望がご理解いただけるのではないかと思います。 そして、やがてご自分もそうなるのだという覚悟がうまれるかもしれません。
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